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僕のオールドレンズ・ストーリー

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僕のオールドレンズ・ストーリー
愛用オールドレンズを私的に語る
公開日:2014/07/15

第2回 名もなき写真家の末路

photo & text 澤村 徹

M42 Mount Asahi Opt. Super-Takumar 50mmF1.4 Model I

NEX-5 + Super-Takumar 50mmF1.4 Model I
絞り優先AE F1.4 1/125秒 +0.7EV ISO200 AWB RAW
玄光社「オールドレンズ・ライフ Vol.1」の企画で、尾川宏氏に紙の彫刻を制作してもらった。時は東日本大震災の直後。一枚の紙から立体を作り出す彼の作品に、日本の復興を重ね合わせる。昭和の高度経済成長期のレンズ、スーパータクマー50ミリF1.4で撮影した。

ぼやけた視界が少しずつ、形をなし、色を帯び、世界がその姿をあらわす。小学校低学年だった当時のぼくは、家にあった大きなカメラを持ち出し、ベランダから庭のあちらこちらをのぞいて遊んだ。いま思えば、カメラを望遠鏡代わりにしていたのだろう。そのカメラは父親のものだったが、すでに壊れていたこともあり、持ち出しても怒られることはなかった。

オールドレンズでデジタル撮影するようになってしばらく、唐突にこのカメラのことを思い出した。たしか望遠と標準、二本のレンズがついていたはずだ。その頃はまだ所有するオールドレンズが少なかったので、一挙に二本もレンズが増えるのは魅力的だった。実家に帰った折り、ボディとレンズを捕獲してきた。

ボディはペンタックスSP、レンズはスーパータクマーの50ミリF1.4と135ミリF3.5のセットだった。TTL測光露出計を搭載した35ミリ判の名機と、そのキットレンズだ。
レンズはわずかに曇りがあるものの、十分に実用できるコンディションだ。ボディはあの当時と変わらず、すでにシャッターが切れない。反応しないシャッターボタンを何度か押し込み、このペンタックスSPの過去に思いを馳せる。我が家にとって、このカメラは曰く付きの一台なのだ。


ペンタックスSPは1964年に発売になった。SPはスポットマチックの略だ。自分にとってメモリアルカメラだが、修理するより買い直した方が安いという現実が目の前に立ちはだかる。
 付属ケースには祖父のイニシャルが貼ってあった。祖父が使っていた証であり、父親が使っていなかった証でもある。形見と言えば聞こえはよいが、やるせない気持ちになる。

このペンタックスSPは、ぼくの両親が結婚した時、父親の学生時代の恩師から贈られたものだという。発売間もない話題の新機種を、結婚祝いとしてポンと贈るあたり、この恩師も相当のカメラ好きだったのかもしれない。なによりも、「新しいカメラで新しい家族を撮りなさい」という心づくしが粋だ。

では、ペンタックスSPが我が家の記録係として活躍してくれたのかというと、実はこのカメラで撮った写真を一枚も見たことがない。結婚早々、ライカ使いの祖父が没収してしまったからだ。

若くして結婚したぼくの両親は、結婚費用の多くを祖父に借りていた。結婚費用を親に頼るのは、今も昔もさほどめずらしいことではない。しかし、祖父は吝嗇家だったため、借金返済と称して祝い金をすべて没収した。さすがにプレゼントの品までは手を出さなかったようだが、このカメラだけは別だった。ペンタックスSPはTTL測光を採用しながら小型軽量を実現し、世界的なロングセラーモデルに化けたカメラだ。若い時分からライカ使いだった祖父が、このカメラを見逃すわけがない。ニューファミリーを一枚も写すことなく、ペンタックスSPは祖父の手に渡っていった。

もし、祖父の遺品からペンタックスSPが出てくれば、それは美談のひとつになったのかもしれない。しかし、現実は常に世知辛いものだ。ペンタックスSPは、わずか数年で我が家に戻ってきた。シャッターが切れなくなり、祖父が手放したのだ。もともと父親はカメラや写真に興味がなく、壊れたペンタックスSPはそのまま押し入れの奥で長い眠りにつく。再び陽の目を見たのは、幼い長男が望遠鏡代わりに遊び出したときだった。カメラに興味がなかったとはいえ、壊れたペンタックスSPで遊ぶぼくを、父親はどんな気持ちで見ていたのだろう。

祖父の死後、屋根裏部屋から膨大な量の写真が出てきた。書架と化したその部屋は、すべての壁が本棚で埋まり、隙間なくアルバムが詰まっていたという。祖父が数十年にわたって撮り貯めた写真の数々。しかし、そこに家族写真は一枚もなかった。見知らぬ風景、些末な日常、そして撮った本人しか感情移入できないディテール。残された者にとって、まったく無意味なイメージばかりだ。

それらの写真は、すでに一枚も残っていない。祖父には五人の子供がいたが、誰ひとり一冊のアルバムも持ち帰ることなく、本棚ごと処分したという。
「一応、ひととおり目を通したけどな。子供の義務として」
父親の言葉は負い目を感じた言い訳のようであり、数十年越しの嫌みのようでもあった。
スーパータクマーを持ち出すと、いつもこのエピソードが脳裏をよぎる。祖父の非情を責めるのはたやすい。子供の結婚祝いを取り上げるなんてひどい親だ。まして贈った人の気持ちまで踏みにじって、まったくどういう神経なんだ、と。しかし同じカメラ好きとして、非難しきれない歯がゆさが巣食う。撮る者の業、とでもいえばいいのか。記録目的以外で撮影するとき、人は表現の世界に足を踏み入れる。理性や理屈が通用しない、狂おしい世界だ。こうした世界に身をおく者にとって、新しいカメラとレンズは表現の幅を広げる魔法だ。このカメラがあれば、これまで撮れなかったシーンが撮れるかもしれない。最新レンズはどんな世界を見せてくれるだろう。そんな思いが全身をかけめぐる。自分が祖父の立場だとして、ペンタックスSPに手を出さずに我慢できただろうか。

ファミリースナップは健全だ。写真を記録と割り切る者も安心していい。それらの写真は末永く、それこそ運がよければ数代にわたって親族の目を楽しませることだろう。しかし、写真で何かを表現しようとするならば、これだけはおぼえておいた方がよい。そこにどれだけすばらしい陰影が描かれていようとも、かけがえのない一瞬が切り取られていようとも、それはあなた以外のほぼすべての人にとって、まったく無縁のディテールだ。

そうと知ってもなお、ぼくたちはシャッターを切るだろう。人の心を打つ傑作を夢見ながら。祖父の膨大な遺作は、もうこの世に一枚もない。




スーパータクマー50ミリF1.4はM42マウントを採用している。ミラーレス機はもちろん、キヤノンやソニーのデジタル一眼レフにも装着可能。ここではRayqualのM42-SαEでα7に装着している。
手元にあるスーパータクマーはモデルIと呼ばれる8枚玉仕様だ。焦点距離の隣に「Asahi Opt. Co.,」と刻印してあるものがモデルIと言われている。


NEX-5 + Super-Takumar 50mmF1.4 Model I
絞り優先AE F4 1/13秒 ISO200 AWB RAW
開放では甘い描写だが、絞り込むと一転、やや太めの線で力強い描き方になる。発色は地味な部類で、現行の高発色なレンズに慣れていると、さながら昭和レトロのような味わいだ。

<プロフィール>


澤村 徹(さわむら てつ)
1968年生まれ。法政大学経済学部卒業。オールドレンズ撮影、デジカメドレスアップ、デジタル赤外線写真など、こだわり派向けのカメラホビーを得意とする。2008年より写真家活動を開始し、デジタル赤外線写真、オールドレンズ撮影にて作品を制作。近著は玄光社「アジアンMFレンズ・ベストセレクション」「オールドレンズを快適に使うためのマウントアダプター活用ガイド」、ホビージャパン「デジタル赤外線写真マスターブック」他多数。

 

<著書>


アジアンMFレンズ・ベストセレクション



オールドレンズを快適に使うためのマウントアダプター活用ガイド



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