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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜

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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜
カメラマン 丹野清志。昭和19年(1944年)に生まれ、平成、令和の時代を通り過ぎ、60余年に渡って日本を撮り続けてきた。一人のカメラマンの小さな“記憶の断片”といえる写真とともにタイムスリップし、その時、その場所で出逢った物語を今の視点で見つめる。
公開日:2025/01/28

第2回 1963年 写真学生、炭鉱へ行く

Photo & Text:丹野清志


写大での撮影実習といえば、写場(撮影スタジオ)で大型カメラを使ってのポートレート撮影で、私が望む取材カメラマンの心得というような講義は皆無でしたから、自分で体験、実践するしかありません。「アマチュアの趣味写真なら1枚写真のケッサクねらいでよいが、プロカメラマンは数枚の写真で構成する「組写真」を考えなければならない。組写真は漠然と写してもまとまらない。テーマをしっかり決めて取り組みなさい」と元新聞カメラマンで写真雑誌の編集者である方に言われていて、「テーマとは何か」などあいまいなままに私が被写体に選んだのは身近な人でした。郷里福島市の家の近くにあった竹行李を作る仕事場を訪ねて“取材撮影”したのでした。竹行李とは、竹で編んだ衣類などを収納するための箱型の入れ物で、手荷物の運送にも使われていました。この写真を中日新聞社から出ていた写真雑誌「カメラ芸術」のコンテストに応募すると入選、7点の組写真で5ページ掲載されたのでした。写真家の作品と同じようにグラビアページ(写真はグラビア印刷だったので雑誌の写真ページは「グラビア」と呼ばれていました)に掲載されているのですから、写真に写したことを印刷物で多くの人に伝えることを目ざしている写真学生は、すっかりプロカメララマン気分です。そうなると欲が出るもので、すぐに写せるような被写体ではなく時間をかけて写していく対象と向き合わねばと思っていて、帰省時に見た新聞の中に常磐市(現いわき市)にある小野田炭礦が閉鎖・閉山したという記事を見つけたのです。

福島県南部から茨城県北部にかけてひろがる常磐炭田は、昭和20年代には3万人を超す人が働いていて、全国の石炭産出量の10パーセントを産出した本州最大の炭田地帯で、小野田炭礦はその中の小さな炭鉱です。昭和30年代、石炭から石油へ資源エネルギーの転換の時期に入ったことから、次々に炭鉱閉山が進んでいるのでした。炭鉱に関しては、「朝も早よからヨー カンテラ下げてナイ」で始る常磐炭鉱節を聞いたことがあるぐらいでまったくの無知でしたから、ニュースとして読み流しただけでしたが、高校時代に買った土門拳写真集「筑豊のこどもたち」「るみえちゃんはお父さんが死んだ・続筑豊のこどもたち」の写真群が思い浮かんだのです。取材カメラマンを目指すのであれば、少しでも興味を持った場所があるなら出かけてみるべきだ、と小野田へ行ってみることにしたのでした。テーマなど大げさなことは考えることもなく、炭鉱で働く人たちの暮らしの場ってどんな感じなのだろうという興味だけでした。寒さがやわらいできたころ、常磐市小野田というところがどんなところなのか、ロケハン気分で見てみることにしました。緊張感で硬くなっていましたから、広角レンズを装着したレオタックスを肩に下げていましたが、写真を写すことは考えませんでした。ところが、見知らぬ土地で人に会ってこんにちはと挨拶するとキツイ視線が返ってきたりどこから何をしにきたのかとあれこれ詮索されるのがふつうですが、どの人もすでに顔見知りみたいな感じの笑顔がかえってきたのです。その日のやわらかな人たちとの出会いを体験したことで、夏休みの撮影“テーマ”が決まったのです。7月6日から8月2日まで、常磐線湯本駅近くの家に間借をして、小野田の炭鉱住宅へ通いました。バスで約20分、1日19往復、バス代は20円でした。




炭鉱住宅

炭鉱で働く人たちは、会社が建設した炭鉱住宅、略して炭住と呼ばれる住宅に住んでいました。6戸〜10戸が連なるトタン葺き屋根の棟割長屋です。ハモニカのような形をしていることからハモニカ長屋と呼ばれていたようです。炭住の向こうに、石炭の採掘時に出る岩石廃棄物(ズリ)を積み上げたズリ山(九州地方の炭鉱ではボタ山と言う)が見えます。炭住の中心に生活雑貨用品を売る店があり、魚屋さんが自転車で引き売りに来ます。広場の一角に共同風呂があり、風呂代は一人月70円、子どもは35円。このお金で石炭を買い、山から拾ってきたマキとともに風呂をわかすのです。家から離れたところに共同便所があり、ほとんどの家には炭鉱の発電による蛍光灯がついていて、「昔は一日30 銭で2灯も3灯もついてたのに」と女性。閉山後は電力会社の電気になり、メーターがつくようになりました。
閉山して間もないので、閉山後の処理作業を続けている人もいましたが、次の仕事に移ったり職業紹介所に出かけていたりで昼間の炭住は老人と女性と子どもたちがほとんどでした。その中に、若いころ東京でちょいと暴れ者だったという頑強な体つきの中年男が一人いて、自分のことより炭住の人たちの面倒をよくみるという親分肌で、私は弟分という感じでいろいろお世話になりました。






滞在日記より

7月9日
近所の女性が4人集まって、白い紙が手に入ったというので家の壁紙を張替える作業の手伝い。部屋が明るくなった。長屋の各家の壁や天井には新聞や広告の紙などが壁紙として張られていて、古くなると新しい新聞紙を貼り付ける。新聞紙の張替えのくり返しですから、壁は家の歴史。廃墟になった家を見に行くと、剥がれ落ちた壁に年号の違う古い新聞記事がめくれているのを目にする。


7月13日
休日なので男たちがいる。花札に夢中の男3人の時々卑猥な会話を聞きながら、子どもたちと遊ぶ。「タケシ、たばこ買ってこい」「タケシ、マッチとってくれ」「タケシ、水ッ」と父があれこれ言うたびに子は立ち上がる。




7月17日
「おらが娘のころは小野田も景気がよくて、すごかったゾイ。男たちは、昼間っから酒飲んで、ぐでんぐでんになってたり。盆の時はそこの広場に人がイッペイ集まって、やぐらたてて芸者まで来てナイ」共同風呂の風呂焚きをしているおばあさんが言った。



 
7月22日
かつ坊はいつも上半身裸でいる。出会った時はカメラを向けると石をぶつけてきて写真を写されるのを嫌がったのだが、ときどき一緒にアイスクリームなどを食べたりしているうちに硬さがほぐれてきて、今ではすっかり仲のいい友だちだ。でも、カメラを向けると知らん顔している。負けるとわかっている喧嘩でも向かっていく。そして泣きべそをかいている。なぐさめてやろうとすると、そっぽを向いている。いつもお母さんに叱られている。


7月25日
昨日の雷雨のせいで地面に大きな穴があいた。地底を掘っているので地盤がゆるんでいるのだという。大雨が降ると良く穴があく。家が、ドスンと落ち込んだこともあったという。昼間、男たちは仕事で出かけているので、女性たちが中心になって穴を埋める作業をする。

7月26日
小野田公民館で料理講習会。「カレーライスおごられたんだけど、私お金ないからいらないって言ったの、そしたら今日はおごりだよって言われて。なんで?って聞いたら、今日は誕生日だからって。こういう時って、黙ってサンキューっておごってもらっていいのかな。おかえしなんかできないし」と高校1年の娘が言う。



バイクで紙芝居のおじさんがやってくると、ワッと子どもたちが集まります。こどもたちは芝居の展開より水あめを買ってなめるのが楽しみでした。そんな子どもたちと一日じゅう遊んでいたり、「休まんせ」と誘われた家で近所のうわさ話をなんだかんだと聞き、世間話の中に混じってずるずると一日過ごしたり、雨の日には、ある家で特になにするわけでもなくごろごろしていたり、珍しいことも驚くこともなく、何もおこらない平凡な日々が過ぎていっただけのわずか1か月の滞在期間でしたが、何年も通ったような濃密な時間でした。








炭住の暮らしは、一山一家(いちざんいっか)と呼ばれていました。炭鉱はヤマと呼ばれていて、同じヤマで働く人たちは皆家族、という意味です。職場での上下関係はなく収入の差もない人たちが住んでいるのですから、炭鉱住宅全体がまさに“家族”という環境であり、そして、炭鉱で働く人たちは全国各地から様ざまな仕事をしてきた人たちが集まってきている、ということが人と人の関係をゆるやかにしていたのです。そのことが、よそ者がしぜんに写すことができた大きな要因だったのだということに気づくのは、炭住通いが終わりに近くなってからのことです。そして、「人に接して写真を写すことに技法はない」ということを、写真学生は身体に感じたのでした。
















撮影で使用したカメラは、レオタックスfとニコンF。レオタックスに装着したのは前年までのニッコールから同じスクリューマウントのキヤノン35ミリF2.8。ニコンFにはニッコール135ミリF3.5を装着。長年新聞カメラマンをされていた人に、報道カメラマンの望遠レンズは135ミリがベストだと勧められたのでした。135ミリは行方不明ですが、ニコンFボディのみ現存。1963年に購入以後、故障なしで62年後の現在もきちんと作動します。

 

1963年のできごと

福岡県大牟田市の三井三池鉱業所で炭塵爆発事故、458人死亡、中毒患者839人。吉豊ちゃん誘拐事件、アメリカのケネディ大統領がダラスで暗殺。三波春夫が歌った64年開催の東京オリンピックのテーマソング「東京五輪音頭」、坂本九「見上げてごらん夜の星を」、梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」、私と同じ年の舟木一夫「高校三年生」などがヒット。CM京都伏見の清酒「神聖」「いっばいやっか」、小西六写真工業「コニカはコニカいいと思うよ」、アニメ「鉄腕アトム」が放送開始。映画、黒澤明監督「天国と地獄」今村昌平監督「にっぽん昆虫記」今井正監督「武士道残酷物語」、アルフレッド・ヒッチコック監督「鳥」、ジョン・スタージェス監督「大脱走」D・リーン監督「アラビアのローレンス」

炭鉱住宅の写真は下記の場で掲載、展示されました。
1964年 カメラ毎日「閉山その後」と題して4ページ掲載。
1996年 アサヒグラフ特集「ヤマが消えた日」
2002年 写真集「炭鉱住宅」(グラフィカ)
2004年 いわき市美術館「炭鉱(ャマ)へのまなざし 常磐炭田と美術」展に参加。30点展示。
2008年 いわき市石炭化石館 写真展「小野田炭礦住宅の人びと
2009年 目黒区美術館「文化資源としての<炭鉱>展」に参加
2014年 ギャラリーコックピット(いわき市)  写真展「1993年、夏 小野田炭住」
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丹野 清志(たんの・きよし)

1944年生まれ。東京写真短期大学卒。写真家。エッセイスト。1960年代より日本列島各地へ旅を続け、雑誌、単行本、写真集で発表している。写真展「死に絶える都市」「炭鉱(ヤマ)へのまなざし常磐炭鉱と美術」展参加「地方都市」「1963炭鉱住宅」「東京1969-1990」「1963年夏小野田炭鉱」「1983余目の四季」。

<主な写真集、著書>
「村の記憶」「ササニシキヤング」「カラシの木」「日本列島ひと紀行」(技術と人間)
「おれたちのカントリーライフ」(草風館)
「路地の向こうに」「1969-1993東京・日本」(ナツメ社)
「農村から」(創森社)
「日本列島写真旅」(ラトルズ)
「1963炭鉱住宅」「1978庄内平野」(グラフィカ)
「五感で味わう野菜」「伝統野菜で旬を食べる」(毎日新聞社)
「海風が良い野菜を育てる」(彩流社)
「海の記憶 70年代、日本の海」(緑風出版)
「リンゴを食べる教科書」(ナツメ社)など。

写真関係書
「気ままに、デジタルモノクロ写真入門」「シャッターチャンスはほろ酔い気分」「散歩写真入門」(ナツメ社)など多数。

主な著書(玄光社)

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