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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜

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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜
カメラマン 丹野清志。昭和19年(1944年)に生まれ、平成、令和の時代を通り過ぎ、60余年に渡って日本を撮り続けてきた。一人のカメラマンの小さな“記憶の断片”といえる写真とともにタイムスリップし、その時、その場所で出逢った物語を今の視点で見つめる。
公開日:2025/02/21

第3回1964-1968年「社カメ」時代〜雪国の分校での出逢い

Photo & Text 丹野清志


高度経済成長期の60〜70年代半ばにかけて、農村から都市部へ働きに出る中学、高校卒の少年たちを乗せた集団就職列車が出ていました。夜行列車で上京した若者労働者たちは「金の卵」と呼ばれ、彼らの心情を歌った「あゝ上野駅」が1964年5月に発売されて大ヒットします。1964年4月に月刊誌編集部の写真部に「社カメ」(社員カメラマン)として加わっていた私のカメラマンとしての最初の仕事が、あゝ上野駅を歌った歌手の井沢八郎と上野駅長の二人を夜行急行「八甲田」を背景に撮影することでした。写した写真は本文記事中に掲載されたのですが、その後は写真部の新人はまず暗室をやれ、と暗室が仕事場となります。編集者が写してきたフィルムの現像、引伸しをすることでした。たまに記事中の説明写真の撮影仕事がありましたが、毎日ハイポ(フィルム現像、と引伸しで使用する定着液)の匂いの中にいて、こんなんじゃ学生時代にバイトしたDPE店(フィルムの現像と焼付け引伸しをする写真店)のバイトの延長じゃないか、とふてくされていた私は休日にはカメラを持って東京の街をうろうろ歩き、夏休みには東北の山間地への旅に出かけました。人に会うと決まって「生まれはどこですか」と聞かれて「福島です」と答えます。「ああ、東北なのね」と言われるたびに、「東北」といえば太宰治や宮沢賢治や石川啄木という名が浮かぶぐらいで津軽も岩手も行ったことがなく、生まれた地の福島県もほとんど知らないことに気づき、「東北地方」ってどんな風土なのだろうという関心からの東北への旅でした。
 

北上山地への旅 1965年夏



1960年代、集団就職とともに農村では農家の働き手である男たちが都市部に出稼ぎに出て行きました。村に残って農業をするのは、じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん。ということで「三ちゃん農業」と呼ばれました。
ジャーナリズムでは、「都市と農村」「過密と過疎」という言葉がひんぱんに使われていて、豊かな都市生活に対して貧しい農村という対比での記事が多くみられました。1955年に日本住宅公団が建設を始めた住宅団地は都市生活者の憧れであり、「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫をそろえることが豊かさの象徴とされました。これは、60年代半にはカラーテレビ、クーラー、自家用車の「3C」となりました。

「田舎」というと童話の中にあるのんびりした村の景色を思い浮かべてなんとなくほっとするのですが、「片田舎」となると、ひらけていない辺鄙な貧しい土地のイメージ。町から遠く離れた地は「辺地」「へき地」と呼ばれます。今日、住んでいる人の50%以上が65歳以上の集落を「限界集落」と言い、テレビ番組で紹介されたりしていますが、当時はダム建設で村ごとその地を離れることになったり一家で村を出ていくことを「挙家離村」と言い、高度経済成長の裏と特に山間地では過疎化が進行していたのです。
1965年の夏、岩手県の北上山地をぶらつきました。山地に点在する「寒村」は、へき地の代表のように見られていました。ちなみに、今日の地図では「山地」は「高地」と表記されています。






雨の記憶

 

雨はしばらく止みそうにない。
家の前の、狭い畑のしょぼくれた野菜や、無造作に積んであるマキや、稲藁や水たまりにひっくり返っている子どもの三輪車や錆びついた鎌などをぼんやりと眺めていた。
人がいる、そんな気配があった。
麦わら帽子をかぶった少年が、家の隅からじっとこちらを見つめていた。
「やあ、こんにちは」自分でも驚くような大きな声を出していた。
しかし少年はそれには答えてくれず、にこりともしない顔が、ただじっとこちらを見つめているだけだった。少年の視線にすっかり戸惑い、そしてうろたえた。不思議な沈黙の時間がたった。雨が霧のように降っている。
「ひとりであそんでいるのかい」「何年生?」「かあちゃんは、仕事?」続けていろいろ聞いてみるのだが、少年は答えてくれず、表情に変化はなかった。二人は黙ったままそこにいた。しばらくして話しかけると、少年の表情がわずかに動き、フッと笑ったように見えたのは一瞬のことだった。
少年と別れようとした時、黒い畑の中に人があらわれた。カゴを背負ったおばあさんが歩いてきた。こんにちは、と声をかけると、ちらとこちらを見て無言で視線をはずし、まるで逃げるように家の中に消えていき、少年もくるりとこちらに背を向けて、やはり逃げるように家の中へ消えていった。ついに少年の声を聞くことはなかった。(1964年北上山地取材記から)

この旅で人と会話をしたのは食堂で注文する時と宿の人だけで、カメラを向けたのは少年だけでした。1年前に炭鉱住宅での人びととのしぜんなふれあいの時の体験がありますから、顔を合わせることすら拒否されてしまったことは、大きなショックでした。
北上山地でのつらい旅がずっと重く胸の中にあって、その後、旅する行先はいつも主に東北地方の山村でした。何をしに来たのかとよそ者に対する警戒感が強く、会話を交わすことすらも難しい農山村の地をあえて選んだのでした。見知らぬ土地に足を踏み入れるということはどういうことなのか、そこで写真を写すということはどういうことなのか、といったことを自問しつつの“考える旅”でもありました。


社カメ、日々の撮影に空しくなる

勤めて2年ほど経つと、新人「社カメ」も写真ページ掲載の撮影が依頼されるようになります。月刊誌ですから、撮影の対象は写真を通して社会を見ていきたいという私の思いとは無縁の、旅行ガイド、料理、住宅、ファッション、芸能人のポートレート撮影などが主で、初めのころはカメラマン体験として面白かったのですが、3年も過ぎるころにはセットされた被写体を決められたように写すだけのカメラマンでいることに、飽きるというより空しくなってきました。そろそろ辞め時かなあと思い始めていたころ「雪国」へ出かけました。


1968年
雪国の分校へ



早朝、宿を出ると、どっさり降り積もった雪。私が生まれた地は同じ県なのですが、家が雪に埋もれるという風景の中にいるのは初体験ですから、雪景色を楽しむなんて気分はなく、積雪の多さにただ驚くだけでした。
分校に通う子どもたちの列に出会います。一、二年生の子どもたちは分校に通うのですが、三年生以上は歩いて1時間半のところにある本校に通っているのでした。子どもたちは降り積もった雪の中を黙々と歩いていて、私はその様子にただカメラを向けているだけでした。



福島県耶麻郡山都町第一小学校第二分校。1年生5名、2年生2名の複式学級。冬の校舎は雪に埋もれていて、教室の黒板の横にはダルマストーブ(だるまに似た形をしていることから名づけられ、石炭、コークス、マキなどを燃料としました) で、私の小学校時代も教室の煖房はストーブでしたから、子どもたちがいる教室の風景は少年時代にタイムスリップするようでした。先生は、二年生に国語を教えながら一年生の図工を見てアドバイス。体操の時間は一、二年が一緒です。見たことのない町の様子など社会一般のさまざまな姿を写したスライド映写を見る時もみんな一緒です。「分校の子たちは少ないですから、みんな兄弟みたいなのですね。だから、競争し合って伸びていくというところが弱いでのです」と先生。




よそからふらりと現れた私は、当然子どもたちの好奇心をくすぐります。大人のそれとは違って子どもたちはストレートに興味を示します。なぜ写真撮るのかと聞かれれば、「みんなの元気なところ写してるんだよ」と答えるのですが、それで了解です。子どもたちはどの子も明るく口調もはきはきとしていて、しばらくするとカメラを持ったお兄さんが教室をちょろちょろ動いていても気にすることもなく普段通りのような様子なので、私は心地よい気持ちでシャッターを切っていました。休み時間などはまるで転げまわるようにはしゃぐ姿を見ながら、4年前に北上山地で雨の日に出会った少年の顔が重なります。あの子も学校の場に行けば、友だちと一緒に明るくはしゃいでいるのかもしれないな、と思ったのでした。







 「雪国」での人々との出会いにはぎくしゃくしたところがなく、知り合いどうしのような会話が続きました。分校の子どもたちとのふれあいが、住民と私との距離感を縮めてくれたようです。また、私が同じ県の人だということが分かると、なんとなく身近な人という印象になったのかもしれません。いずれにせよ、見知らぬ土地で人々とふつうに対話するには自然体でいることなのだということを、分校の子どもたちとの時間が教えてくれたのでした。後に、「取材者」として全国各地へ出かけて様々な人と出会うことになるのですが、つねに普通の人として対等の関係で会話するように心がけたのでした。














 

福島県山都町(現在喜多方市)について

福島県山都町は、福島県北西部に位置し、新潟県と山形県と接しています。2006年、耶麻郡熱塩加納村、塩川町、高郷村とともに合併して現在喜多方市。「山都そば」で知られるそばの町。鉄道マニアの方であればご存じだと思う一ノ戸鉄橋は近代産業遺産。



1964-1965年、1968年のできごと

1964年。東海道新幹線開通。東京オリンピック開催。新潟地震。みゆき族、アイビールックが流行。CMアリナミン「飲んでますか」。コルゲンコーワ「おめえへそねえじゃねえか」。ハーフカメラのコニカアイ「いいと思うよ」。吉永小百合、浜田光男主演の映画「愛と死をみつめて」と青山和子の歌がヒット。テレビ人形劇「ひょっこりひょうたん島」放送開始。今村昌平監督「赤い殺意」内田吐夢監督「飢餓海峡」
1965年。人類初の宇宙遊泳。 黒人開放運動指導者マルコムX暗殺。新潟県阿賀野川流域に水銀中毒患者発生。エレキギターブーム。CM、フジカシングル8「私にも写せます」。ヒット曲、北島三郎「函館の女」山田太郎「新聞少年」。映画、石井照男監督高倉健主演「網走番外地」。クリントイーストウッド主演のマカロニウエスタン「荒野の用心棒」、ジャン・リュック・ゴダール監督「恋人のいる時間。

1968年。三億円事件(銀行の現金輸送車が襲われ三億円が奪われた)。川端康成がノーベル文学賞受賞。ロバートケネディ暗殺。流行語「とめてくれるなおっかさん」「ノンポリ」「ズッコケる」「ゲバ」、男性の長髪、ヒッピースタイル、ミニスカートが流行。テレビ「ゲゲゲの鬼太郎」「巨人の星」、映画「2001年宇宙の旅」「猿の惑星」


ニコンS3 + W-Nikkor 3.5cm F2.5

撮影で使用カメラは、ニコン ニコマートFTN+ニッコール105ミリF2.5とニコンS3+ニッコール35ミリ。ニコンS型は、スナップカメラマンとしてはどうしても欲しいカメラだったので、1965年、7年前に発売された「ニコンS3オリンピック」が追加生産されると聞き、社に出入りしているカメラ機材の業者に予約、貯金とボーナスを使って購入しました。レンズはW-NIKKOR・C f-3.5cm F2.5。


ニコン ニコマートFTN(写真の装着レンズは、Nikkor 28mm F2.8)
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丹野 清志(たんの・きよし)

1944年生まれ。東京写真短期大学卒。写真家。エッセイスト。1960年代より日本列島各地へ旅を続け、雑誌、単行本、写真集で発表している。写真展「死に絶える都市」「炭鉱(ヤマ)へのまなざし常磐炭鉱と美術」展参加「地方都市」「1963炭鉱住宅」「東京1969-1990」「1963年夏小野田炭鉱」「1983余目の四季」。

<主な写真集、著書>
「村の記憶」「ササニシキヤング」「カラシの木」「日本列島ひと紀行」(技術と人間)
「おれたちのカントリーライフ」(草風館)
「路地の向こうに」「1969-1993東京・日本」(ナツメ社)
「農村から」(創森社)
「日本列島写真旅」(ラトルズ)
「1963炭鉱住宅」「1978庄内平野」(グラフィカ)
「五感で味わう野菜」「伝統野菜で旬を食べる」(毎日新聞社)
「海風が良い野菜を育てる」(彩流社)
「海の記憶 70年代、日本の海」(緑風出版)
「リンゴを食べる教科書」(ナツメ社)など。

写真関係書
「気ままに、デジタルモノクロ写真入門」「シャッターチャンスはほろ酔い気分」「散歩写真入門」(ナツメ社)など多数。

主な著書(玄光社)

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