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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜

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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜
カメラマン 丹野清志。昭和19年(1944年)に生まれ、平成、令和の時代を通り過ぎ、60余年に渡って日本を撮り続けてきた。一人のカメラマンの小さな“記憶の断片”といえる写真とともにタイムスリップし、その時、その場所で出逢った物語を今の視点で見つめる。
公開日:2025/03/19

第4回 東京湾沿岸地図

Photo & Text 丹野清志



1969年末、フリーカメラマンになる

「社カメ」であれば編集部からの撮影依頼は被写体が何であれ引き受けるのが当たり前なのですが、私は気がのらない撮影は拒否することが多く、上司にとっては扱いにくい写真部員でした。社カメが不向きであると自覚していましたから、勤務3年を過ぎるころにはフリーランスになろうと決めて写真部の先輩に打ち明けると、「給料の3倍以上の収入がないとやっていけないぞ。勤めているうちに仕事を見つけておけよ」と言うのでした。が、仕事のアテもツテもコネもない私は、アルバイトは禁じられていたのですが、作品発表の場である写真雑誌ならいいだろうと勝手に決めつけて、プリントが50枚ほどまとまったところで編集部へ「作品」を持ち込むことを始めたのです。写真専門誌に掲載されればフリーになったらハクがつくんじゃないか、みたいなこともチラと思っていたようです。
まる6年勤めた「社カメ」を離れたのは、1969年末のことでした。事務所など構えて独立するというカッコイイ辞め方ではなく、定期的収入の予定などまったくなしの無計画なフリー宣言でした。私が行き当たりばったりのいいかげんな性格であることもありますが、70年代初めのころの若い世代には、かまやつひろしが歌う「どうにかなるさ」のような空気が漂っていたのです。

60年〜70年代は雑誌媒体が全盛期でしたから、フリーカメラマンにとって写真の仕事先がたくさんあった時代でした。1956年創刊の週刊新潮、59年創刊の週刊文春があり、60年代には週刊女性、女性自身、女性セブン、ヤングレデイなど女性週刊誌が次々に創刊され、男性週刊誌は平凡パンチ、週刊プレイボーイ、70年にはan-an、non-noが創刊されます。月刊誌には四大婦人雑誌と言われた主婦の友、婦人倶楽部、婦人生活、主婦と生活があり、どの雑誌にも写真がふんだんに使われていました。思想、政治、経済、文芸などさまざまな分野の論文や評論などが掲載された中央公論、世界、文芸春秋など総合誌の巻頭には「口絵」と呼ばれた写真ページがあり、写真は文章と同等に扱われていて多彩なテーマの写真が掲載されていました。

アサヒグラフ、毎日グラフなどグラフジャーナリズムと呼ばれた写真を主体としたグラフ雑誌には、ユニークな写真特集や連載が多くあり、1963年に創刊された月刊誌「太陽」は、本格グラフィックマガジンとして質の高い写真が掲載されていました。
この時代の印刷物は、まさに写真の時代だったのです。
依頼されて撮影する仕事の無い私は自分でまとめた写真を持ち込むスタイルでしたから、作品として写真を扱ってくれる写真雑誌と総合誌がメインでした。が、持ち込んですぐに掲載されるようなあまい世界ではありません。

「お預かりしましょうと言われたら八割はボツと思ったほうがいいよ」
と先輩カメラマンに言われていました。

編集部の机には持ち込まれた写真の入った印画紙の箱がどっさり積まれていて、私の“お預かり写真”はその上にポンと置かれるのです。総合誌では事件関係や社会的に問題になっているテーマが優先されるので、事象を具体的に解説するような写真ではない私の写真は机の上でしばらく“お預かり”なのでした。

今回の写真の一部は「海へ」と題して「中央公論」誌に掲載されたのですが、16ページでの掲載が決まったと編集部から電話があったのは、持ち込んでからほぼ1年後のことでした。


1969-1971
東京湾沿岸地図
浦安



地下鉄東西線は1969年3月に開通しました。ある日ふらりと東西線に乗り、浦安へ向かいました。以前から、山本周五郎の「浦粕町は根戸川のもっとも下流にある漁師町で、貝と海苔と釣場とで知られていた。」いう書き出しで始まる「青べか物語」の舞台となった浦安の街を歩いてみたいと思っていたのです。南砂町を過ぎて荒川にさしかかるところで地上に出て、江戸川を渡ると浦安に着きます。


東西線浦安駅前











浦安は、江戸時代幕府の直轄地になり江戸に近接していることで、魚介類の供給地として発展してきたところ。境川の川べりの作業小屋でアサリをむく作業している人たちや、ボンボンと音がたてて小舟が行き来する風景にすっかり魅了されて、しばらく通うことになります。昔、海苔を採るための小さな舟のことを「べか舟」と言い、青べか物語から広く知られるようになり、戦後は貝も採るようになって少し大きな舟になり、発動機をつけた舟になったのだそうです。















ある日海苔を乾燥させている家に立ち寄ると、「もうわたしらが最後かもしれませんよ」とおじいさんが言い、しばらくして訪ねてみると天日乾燥の海苔付けの棚はなく、家は閉じられていました。

この時から、私の関心は「青べか物語」の世界から離れて開発がすすむ周辺への地へと移動していくのですが、廃屋や廃船のある風景を眺めてこの地の未来図など想像できず、殺風景な開発地帯をただ黙々とほっつき歩くだけでした。ちなみに「青べか物語」が文芸春秋に連載されたのは1960年、「東京ディズニーランド」は1983年4月に開園します。


ゼロメートルの街



ある時、写真雑誌の編集者に

「君の写真はちょっとおとなしすぎるよ。ガッと乱暴に対象を切り取ってくるような撮り方をしてみたらどうかね」

と言われて、自分の写真を冷めた目で見ると、確かにきちんとまとまった構図でおさまっていて、確かにオトナシイ。それはルポルタージュとして説明的に写すことがセオリーだった一般雑誌の撮り方を続けてきたことによるものであることに気づきます。



単純な私は、極端なレンズを使ったら何か刺激的に変わるのではないか、と超広角レンズ NIKKOR-O 2.1cm F4を購入したのでした。このレンズは後玉が突き出ているので、ニコンFをミラーアップして装着し、フィルム巻き戻し部に専用ファインダーをセット。フォーカスは目測です。

「ピントも手ブレも構図も知らないよッ」

と写ることを拒否するみたいな気分がこの時代の空気でもありましたから、目に触れた風景を超広角ノーファインダースタイルで無造作にシャッターを切っていったのです。







江東区は、東京都の東部に位置し、ともに南の東京湾に流れる隅田川と荒川に挟まれて「江東デルタ」と呼ばれていて、海抜ゼロメートル地帯と言われていました。ゼロメートル地帯とは、河川の水位が満潮時の海水面か低い土地のことで、近年もしばしば巨大地震被害のシミュレーションで洪水の恐れが取り上げられていますが、地盤沈下もすすんで社会問題化されていましたから、江戸川区、墨田区などとともにひろがるゼロメートル地帯は重いテーマでもあったのです。写真で問題提起するような「報道写真」的な方法とは無縁でしたから、知らない街を歩いて行く旅のような風景のつながりでした。




 

埋立地


夢の島

浦安地域からスタートした東京湾岸歩きは、何かを写すというより歩くことが目的のような漠然としたプラン。埋立地の殺風景な場所では人に会うこともなく、毎日野良犬のように歩いていると気が滅入ります。

「こんなところを歩いて何になるんだよ、売れるような写真なんか転がってないし、将来この地に何ができるのか」

そんなことはどうだっていいし関心もない。ただ荒涼とした地平を歩いて行くことだけ考えて、やけっぱちのよう気分でカメラを持ち歩いていたのでした。


品川区


大田区

記憶に残る映画があります。野村孝監督、宍戸錠主演の日活映画「拳銃(コルト)は俺のパスポート」。この映画のクライマックスシーンが埋立地でした。宍戸錠のガンアクションシーンを思い浮かべて貝殻が散らばる地面に腹ばいになっていると、頭上に羽田空港からのジェット機。今振り返ると、埋め立て地歩きは食えないフリーカメラマンのうっぷんを晴らす場だったのだと思います。

「砂漠化した街はグレートーンに包まれてゴーストタウンのようにふと見えて、人びとの平凡な日々にもブレボケの未来都市を見る。一酸化炭素、亜流酸ガス、窒素酸化物、はては光化学スモッグ、オキシダントなんてむずかしい名前が公害のナニだなんて言われてもわかりゃあしない。東京は吐き出すゴミで陸ができていくんだからスゲエじゃねえか。考えようによっちゃ「夢の島」なんてのはすばらしい。バンザイ万博、バンザイGNPバンザイ大国日本、バンザイ、バンザイ」(フォトアート『東京江東区』1970年掲載・丹野清志)


 
千葉市幕張



木更津市


港の端に小さな船があって、アサリ採りの漁具を洗っている老漁師がいて、その背中を写してから「こんにちは」と声をかけると、振り返った漁師は「やあ」と言って知り合いの人にあったかのような笑顔を見せるのでした。「もうここでの仕事は終わりだねえ」というような会話を続けて別れました。
しばらくして行ってみると「おう、また来たな」と私のことを覚えていて、以前と変わらない笑顔で迎えてくれたのでした。手にしたカメラを見て、「写真写すのかい」と言って背筋を伸ばして私の前に立ち、こちらを見つめるのでした。その後、また訪ねたのですが、漁師に会うことはありませんでした。




君津市

暑さがチリチリと毛穴に食い込んできて、吹き出る汗を舐めながら、工場周辺に整地された広大な土地をただ歩いているだけでした。足の裏にできたマメがつぶれてぬるぬると不快で、しばらくするとヒリヒリと痛みがでてきてそれに耐えることで精いっぱい、埋立地や開発地を眺めているのにもいい加減うんざりしていて、写真を写すことなどどうでもよくなっていました。無性に海が見たくなり、足の痛みが少しは治まるだろうと靴底にハンカチを敷いて、はるか向こうに見える海の光に向かったのです。


富津市

海苔を干すのに使われていたと思われる竹の杭の一本に、何やら黒いものがふわりとゆれていました。近づくとカラスの死骸が引っかかっていたのでした。よく鳥を脅すためにカラスの死骸がぶら下がっているのを見ることがありますが、海苔漁師がひっかけて置いたのかもしれません。カラスはすでに肉はなく、鋭い嘴と黒い羽根とそれらをつなぐ骨だけになっていて、ゆらゆらと風に揺れていました。衝動的にシャッターを切り、それからそれに触れてみたい衝動にかられ、羽根にふれてみたのですが、突然カラスの鋭く鳴く声が聞こえて手を放します。近くに聞こえた鳥の鳴き声は頭上にあって、数羽のカラスが動いているのが見えました。黒い動きはなんだか増えているようで、ぐるぐると空を回り始めたのでした。カラスの群れが襲ってくるのではないかという恐怖に震え、カメラをバッグに放り込み、歩いてきた方向に向かって逃げるように思いっきり駆け出したのでした。



今回の写真は、主に1970年日本カメラ・「浦安」、フォトアート・「東京江東区」、1971年フォトアート「海の見える町」1971年中央公論・「海へ、東京湾沿岸の四季」1972年「崩壊する地図」に発表したものを再構成しました。


1969-1971年のできごと

1969年。大学闘争激化。アメリカの宇宙船「アポロ11号」月面着陸。若者にシンナー流行。CMパイロット「ハッパふみふみ」丸善石油「オオ!モーレツ」 流行語「フォークゲリラ」「しこしこ」「造反有離」 歌謡「黒猫のタンゴ」「港町ブルース」「時には母のない子のように」映画「男はつらいよ」第一作公開 ジョン・シュレンダー監督「真夜中のカーボーイ」サム・ペキンパー監督「ワイルドバンチ」
1970年。よど号ハイジャック事件。銀座、新宿、池袋、浅草で歩行者天国始まる。 三島由紀夫自衛隊総監室で割腹死。CM「男は黙ってサッポロビール」、「うーんマンダム」、
国鉄ディスカパージャパン 歌謡「知床旅情」「走れコータロー」映画ジョージ・ロイ・ヒル監督「明日に向かって撃て」デニス・ホッパー監督「イージーライダー」」山本薩夫監督「戦争と人間」小川紳助監督「日本開放戦線・三里塚の夏」
1971年。自衛隊機と全日空機雫石上空で衝突162人死亡。NHK総合オールカラー化。CM「じゃーにーコニカ」コニカC35・小西六写真工業「のんびり行こうよ」モービル石油 歌謡「また逢う日まで」「よこはまたそがれ」「出発(たびだち)の歌」 映画藤田敏八監督「八月の濡れた砂」寺山修司監督「書を捨てよ町へ出よう」ルキノ・ヴィスコンティ監督「ベニスに死す」



東京湾歩きで使用したカメラは、アサヒ ペンタックスSL、タクマ―24ミリF3,5、55ミリF1.8とニコンF・ニッコール21ミリf4。ニッコール21ミリレンズの外付けファインダーはフィルム巻き上げレバー部に装着するので、最初はちょいとカッコイイと思いましたがカメラの端に飛び出しているので使いにくい。そこで、超広角はパララックスのズレがあってもいいじゃないかと思っていましたから、ニコンFボディ中央部のペンタプリズム部を外し、そこに段ボールを切り抜いてファインダーを固定した自家製ファインダーを作ってセットしたのでした。
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丹野 清志(たんの・きよし)

1944年生まれ。東京写真短期大学卒。写真家。エッセイスト。1960年代より日本列島各地へ旅を続け、雑誌、単行本、写真集で発表している。写真展「死に絶える都市」「炭鉱(ヤマ)へのまなざし常磐炭鉱と美術」展参加「地方都市」「1963炭鉱住宅」「東京1969-1990」「1963年夏小野田炭鉱」「1983余目の四季」。

<主な写真集、著書>
「村の記憶」「ササニシキヤング」「カラシの木」「日本列島ひと紀行」(技術と人間)
「おれたちのカントリーライフ」(草風館)
「路地の向こうに」「1969-1993東京・日本」(ナツメ社)
「農村から」(創森社)
「日本列島写真旅」(ラトルズ)
「1963炭鉱住宅」「1978庄内平野」(グラフィカ)
「五感で味わう野菜」「伝統野菜で旬を食べる」(毎日新聞社)
「海風が良い野菜を育てる」(彩流社)
「海の記憶 70年代、日本の海」(緑風出版)
「リンゴを食べる教科書」(ナツメ社)など。

写真関係書
「気ままに、デジタルモノクロ写真入門」「シャッターチャンスはほろ酔い気分」「散歩写真入門」(ナツメ社)など多数。

主な著書(玄光社)

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