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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜

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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜
カメラマン 丹野清志。昭和19年(1944年)に生まれ、平成、令和の時代を通り過ぎ、60余年に渡って日本を撮り続けてきた。一人のカメラマンの小さな“記憶の断片”といえる写真とともにタイムスリップし、その時、その場所で出逢った物語を今の視点で見つめる。
公開日:2025/04/25

第5回 1972-1973 「公害・閉山・開発」

Photo & Text 丹野清志

足尾銅山
 

ドキュメンタリーフォトの時代

カメラ片手に公園近くを歩いていたら、「なに撮ってんの?」と少年の声。それは詰問口調で、不審者を見るような視線でした。写真家の友人が街で少年を写したらその子は交番に走っていき、知らない人から写真を写されたと訴えたのだそうです。しぜんにスナップ写真が写せたのはいつごろまでだったでしょうか。1970年代はまだ知らない子どもたちとの会話もしぜんにできていて、視線が合うと決まって「新聞の写真、写してんのかぁ」と声をかけられたものです。ほとんどの家で新聞をとっていましたから一般に「カメラマン」と言えば、新聞社に所属して事件や事故などニュースの現場にかけつけて写真を写す「報道カメラマン」のことでした。写真界では、企業、商品の宣伝写真を撮影する「コマーシャルフォト」が華やかに展開し、雑誌媒体ではニュースの背景や様々な社会問題を数枚の組写真構成で見せていく「フォト・ルポルタージュ」が掲載されていましたが、事実を説明、伝達する写真ジャーナリズムの枠から離れて、撮影者の主張を表現する「ドキュメンタリーフォト」の時代でもありました。また、今日の写真ではふつうのことになっていますが、マス・メディアの印刷物に展開する写真とは距離を置き、ギャラリーなどを発表の場として芸術的写真表現「シリアスフォト」を目指す人が増えつつありました。雑誌媒体を発表の場としている私の写真のテーマは、日本列島各地をめぐりそれぞれの地で生きる人びとと出会うことでしたから、ごくふつうのこととしてさまざまな「社会問題」にかかわることになります。が、問題意識を大上段にふりかぶるような見せ方は好きではなく、1972年に廃刊となったアメリカで発行されていたグラフ雑誌「ライフ」が使っていた「フォト・エッセイ」という言葉が好きで、今もあなたの写真の分野は何かと聞かれたらフォト・エッセイと答えているのです。
 

公害の原点・足尾銅山1973年



「公害」とは、広辞苑では『企業活動によって地域住民のこうむる環境被害。ばい煙・有毒ガスによる大気汚染、排水、廃液による河川・地下水の汚濁、地下水の大量採取による地盤沈下、機械の騒音・振動・悪臭など』と説明しています。公害は、1950年代から1960年代にかけての高度経済成長期に各地の工場地帯周辺で発生しました。70年代には、新聞、雑誌メディアでひんぱんに取り上げられていた社会問題でした。私も、ぜんそく被害の川崎、ヘドロで埋まる富士市田の田子の浦、コンビナートからの汚染物質の排出によって水質汚濁がすすむ瀬戸内海、有明海、八代海など公害の地を取材で回りました。今、「公害」という言葉を聞いて、かつて「四大公害病」と呼ばれた産業公害を思い浮かべる人はどのくらいいるでしょう。四大公害病とは、「水俣病」「新潟水俣病」「イタイイタイ病」「四日市公害」。水俣病は、熊本県水俣湾沿岸のチッソ工場から排出されたメチル水銀化合物によって多くの人に神経系障害をもたらしました。1956年に公式認定され、翌年「水俣病」と名付けられました。現在も被害者救済訴訟が続いています。1965年に発表された「新潟水俣病」は、新潟県阿賀野川流域に化学工場からメチル水銀が排出されたことで熊本水俣病と同じ有機水銀中毒患者が出ました。1950年代から多発した富山県の「イタイイタイ病」は、岐阜県の神岡鉱山からの廃水により神通川下流域を中心に発生したカドミニウム汚染で、患者がイタイイタイと叫んだことから1955年に名付けられました。「四日市公害」は、1950年ごろから四日市市の石油コンビナートからの硫黄酸化物による大気汚染でぜんそく患者が苦しみました。人の健康にかかわる公害を罰する法律「公害罪法」が制定されたのは1970年、翌1971年には環境庁が発足します。





「公害」は昭和の時代にマスコミで広く報じられるようになったのですが、明治時代に日本最初の公害として公害問題の原点とされている公害事件がありました。国内一の生産量だった栃木県の足尾銅山精錬所からの鉱毒ガスが山林を枯らし、有毒物質を含む鉱毒水が渡良瀬川に流出して水質が汚濁されて農地が被害を受けたのです。鉱毒対策として作られたのが渡良瀬遊水地(現在はさまざまな動物の生息地として知られるリクリエーションの地になっています)で、被害を受けていた谷中村は強制的に廃村にされたのでした。栃木県選出の代議士だった田中正造が、農漁民とともに鉱毒告発運動の先頭にたち鉱毒問題を国会で取り上げ、1901年には議員を辞職して明治天皇に直訴したのでした。1974年公開の映画、吉村公三郎監督の「襤褸の旗」は、その足尾鉱毒事件、田中正造の生涯を描いています。田中正造を演じたのは三國連太郎。足尾銅山は1973年に閉山しましたが、1980年代まで操業を続けました。2011年の東日本大震災で鉱山跡地が崩れて、有害物質が川に流れ出たそうです。





銅山は日本各地にあり、栃木県の足尾銅山と愛媛県の別子銅山、茨城県の日立銅山、秋田県の小坂銅山を日本の四大銅山と呼ばれています。ちなみに日本の銅山は、1944年に青森県の湯川鉱山、秋田県の花岡鉱山の閉山を最後に大きな銅採掘が終焉しました。鉱毒ガスによって足尾銅山周辺の枯れ死した山は、今植林によって緑の景色に変貌していています。足尾銅山観光として坑内見学ができてトロッコ列車が走っています。


エネルギー革命・炭鉱閉山 1968・1973年



連載第2回は福島県常磐炭田地帯にある炭鉱の閉山後の炭鉱住宅の暮らしを写した写真でしたが、その後常磐地域の炭鉱は次々に閉山していきました。石炭の採掘は江戸時代末期に始まったといわれ、明治期に増えていくのですが、第一次世界大戦の不況によって減少し、1937年の日中戦争以降太平洋戦争によって再び盛り上がります。日本経済の発展を支えてきた石炭産業は、1960年代に入りエネルギー供給が石炭から石油に変わった(エネルギー革命と言われた)ことで大手の炭鉱が次々に閉山し、明治後期から昭和初期まで全国一の出炭量を誇った筑豊炭田は、1976年の貝島炭鉱の閉山ですべての炭鉱が閉山となりました。今は、脱炭素社会を目指して再生可能エネルギーが主力のクリーンエネルギーが主力の時代。現在日本で使用される石炭はほとんどがオーストリア、インドネシアなどからの輸入で、現存する炭鉱は北海道釧路市の釧路コールマインのみになっています。








1973年、常磐炭田の南に位置する現北茨城市の大日本炭鉱、重内炭鉱、日立市の櫛形炭鉱を訪ねました。完全に閉山して間もないのでまだかすかに人の気配が残るところもありましたが、鉄骨だけが野ざらしになっている廃墟風景を写してまわったのでした。エネルギー革命によって滅びた石炭の終焉の地は、まさに盛者必衰、諸行無常といった風景でしたが、時の流れの虚しさみたいなことに胸がツンとしめつけられたのはいっときのことで、そこにあるもモノをオブジェとして写しとることに興奮していたのでした。








鹿島開発 1970-1972年・1975年



鹿島臨海工業地帯造成計画がつくられたのは、第1次「全国総合開発計画」が閣議決定された1962年でした。茨城県鹿島、神栖、波崎3町にまたがる大規模開発で、「不毛の大地」とされた鹿島の地にコンビナートを建設し「豊かな地」を作るというものでした。1969年、「豊かな世界の創造」というスローガンで、高速道路、高速鉄道の全国ネットワークをすすめつつ大規模工業基地を建設するという「新全国総合開発計画(新全総)」が策定されました。私が初めて鹿島の地へ行ったのは1970年のことで、鹿島のコンビナート建設は大きく進んでいる時でした。69年には、20万トンのタンカーが接岸できる横浜港の4倍といわれる鹿島港が開港していました。



鹿島開発では、「農工両全」「貧困化の開放」というキャッチフレーで土地の売買がすすめられました。工場地帯に土地を提供した人は、6割に当たる土地を代替地として得るという「六四方式」がとられました。まだ住み続けている人たちと出会って話を聞くと、「札束がドンと積まれてさあどうだとなればみんなコロリだ」と言い、突然の大金がころがりこんだことで人びとの心がすさんでいく様子が語られるのでした。
すでに廃屋となった家のある風景は歩いていて心地よいわけはなく、人の暮らしが消えた開発の地の“放浪”はただ空しいだけでした。人が住まなくなった家は“溶ける”のだということを、この地で聞いたのでした。鹿島開発は「公害を発生させないコンビナート建設」が目標だったのですが、工場が操業し始めれば当然のように環境汚染が生じます。地下水のくみ上げによって生活用水や農業用水が汚染され、71年には工場排水にシアンが含まれていたといわれ魚貝類が大量死しました。72年から73年にかけては常陸利根川のシジミが全滅し、工業用水のため水がめ化した霞ヶ浦では養殖コイが大量死しました。工場爆発事故も起きてビニールハウスなどには黒い粉塵が散りました。







鹿島開発を舞台にした映画1971年に公開された松竹映画「甦える大地」(監督中村登、主演石原裕次郎)は、まさに不毛の大地を工業の地に変えていく様子を開発する側から描いていました。それから10年後の1982年に公開された「さらば愛しき大地」(監督柳町光男 主演根津甚八、秋吉久美子)の背景には工場群に奪われていく田園地帯を背景に人の心がすさんでいく姿が描かれていました。コンビナートと田園風景のコントラストをたむらまさきカメラマンのカメラワークが見事にとらえていた記憶があります。この映画を見た夏、鹿島の地を再び大地を“放浪”して、その夏の日の風景だけで個人誌ふう写真集を作りました。人の暮らしが消えた“溶けた家”の周辺に生い茂る雑草と樹木の植物群だけの写真集でした。


1975年
 

志布志の海へ 1972年

開発計画は日本列島の北と南で進められました。1972年、田中角栄が日本列島を高速道路、新幹線などで高速交通網化して地域格差を解消しようという「日本列島改造論」を発表して総理になります。開発計画がすすみ列島改造ブームとなりました。青森県では1969年に下北半島の開発計画が新全国総合開発計画の一つとして、石油コンビナート、製鉄所を建設するという六ヶ所村むつ小川原開発が始まります。1972年に北海道の「苫小牧東部開発株式会社」が設立されて開発がスタートした時にはグラフ雑誌の取材で訪れましたが、六ケ所村を訪ねたのは地元住民からの反対運動が起きて、1979年の第二次オイルショックによって石油コンビナートの計画が消えた後のことでした。現在は国家石油備蓄基地と原子力関連施設がつくられています。
むつ小川原開発計画とともに話題になっていたのが南の「鹿児島県志布志湾開発計画」で、1971年に志布志湾の沖合2キロ、全長20メートルを埋め立てて石油コンビナート、工場を建設するという「新大隅開発計画」が策定されました。私が訪れた1972年は、石油コンビナートの埋め立て計画に対して地元住民の反対運動が盛り上がっていた時で、反対運動の中心は鉢巻をまいた女性たちでした。海が奪われるということは、暮らしが奪われること。「スモッグの下のビフテキより青空の下の梅干し」という住民の開発反対のメッセージが話題になりました。


開発反対集会で

「開発」は計画の段階ですから、かたちは見えません。私の取材目的は、海の人びとの生活の今、にふれることにありました。志布志湾の海辺でうろうろしていると、船を出そうとしている漁師が乗ってみるか、と声をかけてきました。「いいですか?」「よか」。ちりめん漁の船に乗せてもらいました。ちりめんはシラスと言い、カタクチイワシの稚魚のことで、ちりめんのようにしわがあることから「ちりめん」と呼ばれます。水揚げするとすぐに加工場に運び、沸騰した塩水で茹でます。それを天日干しにして仕上げるのです。志布志のちりめんは背中が白いことから「背白(せじろ)と呼ばれています。











1973年の第1次中東戦争により第1次石油危機・オイルショックが起き、紙がなくなるという噂からトイレットペーパーの買占め騒動が起きました。第1次オイルショックは77年まで続いたことで、1980年開発計画が縮小されて石油コンビナート企業が撤退し1990年には開発計画が終結します。現在、東串良町柏原海岸沖の埋め立て地に「志布志国家石油基地」があり、志布志港には配合飼料工場、穀物貯蔵庫など大隅地域の資料供給基地になっています。
高速交通網によって地域格差をなくすと言われて以来確かに中央と地方の距離は縮まりましたが、地方都市の人口減少はとまらず人びとの暮らしの地域格差はますます広がっています。令和の「地方創生」は、果たして「豊かな国の創造」となるのでしょうか。



枇榔(びろう)島。志布志湾の中央沖合約4キロにある無人島。枇榔樹が密生している。


1972年、当時銀座にあったニコンサロンで写真展を開催しました。この時のDMに使用した写真は、同年発売の「中央公論」誌に「崩壊する地図」と題した中に掲載した鹿島開発の鹿島灘で撮影した漁具のウキです。さらに開発の地と過疎化する農村を歩いた写真をまとめて、1975年最初の写真集「村の記憶」を自費出版しました。雑誌ふうに作りたかったとはいえ、今見るとただ写真を並べて印刷して綴じただけみたいな写真集でしたが、その写真集のオビに、発売元を引き受けてくれた出版社の紹介で、詩人、作家の森崎和江さんから文章をいただきました。『巨大に機械化された現代社会のひずみを、個の立場で、ただの人として、組織と対応しえるほどの力量で見すえることは、まことに困難である。が、また、それは切実にのぞまれる。この写真集には、その困難に立ち向かう詩魂が輝いている。それはふしぎな逆説を放って私たちの胸を打つ。人間への信頼をよみがえらせる。村には崩れゆくものが満ちているが、それはしずかに展開して、死絶えそうな地面に息を吹き込んでいるのである。』森崎さんのメッセージは強く胸に響きました。この時の言葉が、私の写真人生の根っこにずうっとあり続けているのです。


ニコンサロン写真展 1972

写真集『村の記憶』発刊から40年後の2015年、1970年代に日本各地の海を巡って写した写真と見聞きした文章で構成した『海の記憶・七〇年代、日本の海』(緑風出版刊)と題して単行本にまとめました。(前回の「東京湾沿岸」の写真、今回の「鹿島・志布志の海」の写真も収録しています)

使用したカメラは、ニコンF2・ニッコールHオート50ミリF2、ニッコール Nオート24ミリF2.8、ニッコールオート105ミリF2.5、ニッコールオート200ミリF4。ヤノン7s・キヤノン25 ミリF3.5。この時使用したキヤノン7s・25ミリは1981年発売のミノルタCLE・Mロッコール28ミリF2.8、ニコンF2は1984年発売ニコンFM2ボディ購入時の下取りで消えました。



写真集『海の記憶』
 

1972年のできごと

元日本兵横井庄一氏グアムから帰還。札幌五輪。連合赤軍浅間山荘事件。田中内閣、田中角栄「日本列島改造論」。ミュンヘン五輪。むつ小川原開発計画。テレビ「木枯らし紋次郎」「科学忍者ガッチャマン」CM、「ハブ・ア・ナイス・デー」冨士フイルム。「違いのわかる男」ゴールドブレンド。映画、スタンリー・キューブリック「時計じかけのオレンジ」。フランシス・コッポラ監督「ゴッドファーザー」。ドン・シーゲル監督「ダーティーハリー」。サム・ペキンパー監督「ゲッタウェイ」。斉藤耕一監督「旅の重さ」。深作欣二監督「仁義なき戦い」。 歌謡、あがた森魚「赤色エレジー」。小柳ルミ子「瀬戸の花嫁。」ぴんからトリオ「女のみち」
1973年 韓国野党の指導者だった金大中が東京のホテルから拉致された金大中事件。オイルショック。 CM「美人しか撮らない」ミノルタ。「いま、なんどきですか」ハウスラーメン。歌謡、かぐや姫「神田川」。井上陽水「夢の中へ」「心もよう」。ペドロ&カプリシャス「五番街のマリー」。御三家(西条秀樹、野口五郎、郷ひろみ)。 中三トリオ(山口百恵、森昌子、桜田淳子)。映画、土本典昭監督「水俣一揆」。小川紳介監督「三里塚 辺田部落」
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丹野 清志(たんの・きよし)

1944年生まれ。東京写真短期大学卒。写真家。エッセイスト。1960年代より日本列島各地へ旅を続け、雑誌、単行本、写真集で発表している。写真展「死に絶える都市」「炭鉱(ヤマ)へのまなざし常磐炭鉱と美術」展参加「地方都市」「1963炭鉱住宅」「東京1969-1990」「1963年夏小野田炭鉱」「1983余目の四季」。

<主な写真集、著書>
「村の記憶」「ササニシキヤング」「カラシの木」「日本列島ひと紀行」(技術と人間)
「おれたちのカントリーライフ」(草風館)
「路地の向こうに」「1969-1993東京・日本」(ナツメ社)
「農村から」(創森社)
「日本列島写真旅」(ラトルズ)
「1963炭鉱住宅」「1978庄内平野」(グラフィカ)
「五感で味わう野菜」「伝統野菜で旬を食べる」(毎日新聞社)
「海風が良い野菜を育てる」(彩流社)
「海の記憶 70年代、日本の海」(緑風出版)
「リンゴを食べる教科書」(ナツメ社)など。

写真関係書
「気ままに、デジタルモノクロ写真入門」「シャッターチャンスはほろ酔い気分」「散歩写真入門」(ナツメ社)など多数。

主な著書(玄光社)

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