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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜

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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜
カメラマン 丹野清志。昭和19年(1944年)に生まれ、平成、令和の時代を通り過ぎ、60余年に渡って日本を撮り続けてきた。一人のカメラマンの小さな“記憶の断片”といえる写真とともにタイムスリップし、その時、その場所で出逢った物語を今の視点で見つめる。
公開日:2025/05/22

第6回1976年11月「奥羽紀行(1)」街道を行く・ 七ヶ宿街道-六十里街道

Photo & Text 丹野清志



あるがままに見る旅へ

1977年に「日本赤軍日航機ハイジャック事件」がおきて騒然としましたが、66年のピンクレディーデビューが象徴するように、70年代後半は政治的関心が薄まり世の中なんとなく落ち着いた雰囲気になっていました。私のカメラの構え方もゆるくなってきて、それまで思い込みの強い撮り方をしていたことがなんだか作為的に見えてくるのでした。「あるがままに見ていけばいいのだよ」と思った時、重厚なテーマや激しい写真表現は私の体質には合わないことに気づいたのかもしれません。そして、ロードムービーのように、なりゆきまかせで写真を写していく旅をしたいと思ったのです。取材目的など持たず、したがって行先の下調べをすることもなく、スケジュールなども決めずにただ移動していく。歩いて、見て、感じて、写す。人と出会えば日々の話を聞き、つぶやきのような言葉を身体のどこかに記憶してふわりと通り過ぎていく、そんな旅です。

東北地方の地図を開いてふいと目についたのが、「七ヶ宿街道」と「六十里越街道」の旧街道でした。七ヶ宿街道は、奥州街道と羽州街道を結ぶ道で、旧藩時代に出羽13大名の参勤交代路でした。福島県国見町の桑折宿から宮城県白石へ入り、上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原と七つの宿駅を通り山形県上山(かみのやま)へ至る道で、現在国道113号。山中七ヶ宿と呼ばれました。六十里越街道は、山形県庄内地方と内陸を結ぶ1200年前に開かれたといわれる古道で、庄内から海産物を内陸へ運んだ道。山形市から寒河江(さがえ)、志津、湯殿山、田麦俣(たむぎまた)、大網を経て鶴岡に至る、国道112号)。峠を越える難所が六十里も続いたことから六十里越と名付けられたそうです。出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)への信仰の道とも呼ばれています。近年、旧街道を古人が歩いたように旅する人が増えているようで、七ヶ宿町ではわらじを履いて11キロの道のりを歩くイベントが開かれています。私の場合は歩くことにこだわったわけではなく、疲れたらバスに乗ればいいじゃないかと気楽に考えての旅でした。そうして旅したこの旧街道の旅は、今日にいたる私の写真の基となったのでした。


七ヶ宿街道



小坂峠で昼だった。この峠が福島県と宮城県の県境になっていて、七ヶ宿街道の入り口なのである。ここから見る信達(しんたつ)平野の眺めは素晴らしいと聞いていたのだが、ぽつりぽつり雨が落ちてくる天候のせいで、雲に隠れて何も見えなかった。
茶店があった。藩政時代からここにあって、「助け茶屋」などと呼ばれ、明治ごろに絶えて、大正になって再建されたのだと店のおばあさんが歴史を話してくれた。
この茶店で、映画に出てくる昔の旅人気分で木の芽でんがくとまんじゅうを食べた。木の芽でんがくは、こんにゃくと木綿ごしの豆腐に山椒の実を粉にして混ぜた味噌をかけて食べる。
 






小坂峠から40分ほど歩いて上戸沢。冷たい夏のせいで、無駄な1年を過ぎて枯れているイネを見るだけだった。上戸沢の集落はゆるく曲がった坂道の両側にかやぶきの家が並んでいて、七ヶ宿街道の中でもっとも宿場としての旧態を残しているといわれているところであった。
さらに40分近く歩いて、下戸沢を通り、白岩から上山(かみのやま)に向かう道との分岐点、六角に出た。そこで、ついに降り出した雨のため、1時間ほど待ってバスに乗ったのだった。刈り取ったイネの束が大きなミノムシがいくつも突っ立っているような形の「穂にお」と、壁のようにイネを三段、四段にかけた「はさ掛け」の入り混じる風景をバスの車窓から眺め、渡瀬(わたらせ)、原、追見(おっけん)という集落をぬけて、関というところでふとバスを降りたくなった。夕暮れの田んぼで、遅い脱穀作業をしている人たちを見かけたからだった。
「雨ばし降って。はやいとこすまさねば出稼ぎに行かんねべえよ。子どもら三人まだ学校さ行ってっから、百姓仕事ぐれえじゃダメだ。おれたちの仕事は割合わねえだよ」と、わら焼きの煙に目を細めておばあさんが言う。
一休みしているおじいさんのところへ行って声をかける。「寒くなりましたねぇ」
「ことしはひどいな。昔はももひきひとつで山さへえったもんだが、いまは体がなあ。年寄りはみんな神経痛の持病あんのよ」
「コメは、やられましたか」「ああ、ぜんぜんダメだね。どのくらいになっか。とっても青ゴメだ、豚もくわねえよなあ」そう言って笑ったおじいさんは、根本まで吸い続けたたばこの火を新しいのに移した。白髪まじりの頬を埋めたヒゲに、冷えたしずくが降りかかっていた。そして、「あれが黒いと雨が降る。強くなるなあこの雨は。あれ、蔵王だよ」おじいさんは、遠くにちょろっと見える山を見ながら、そう言って鼻をすすったのである。









夜、宿の屋根に激しくぶつかる雨音を聞いた。翌朝外を見ると山々が紅色だった。滑津ではかなり晴れていた。ここには脇本陣だった安藤家が残っていた。ぶらりぶらりとあたたかくなった日差しの中を歩いて、上山(かみのやま)と米沢方面との追分になっている湯原に着くころ、空模様はがらりと変わって風が冷たくなっていた。
街道は、ずっとそうなのだったが用水路が道の両側に流れていて、それぞれの集落の沢から流れているということだった。その水で、ダイコンやニンジンやハクサイなどを洗ったりするのである。
今日でやっと田の仕事が終わりました、という二関さんの家が旅館だった。堀りごたつに足をどっぷりと突っ込んで話を聞いた。
「ここは、関なんかより何度か冷える。雪は2メートルぐらい降るんで雪に埋もれます。昔はもと降ったね。この先の干蒲はもっと冷えます。もうすぐバスはいかなくなりますよ」
「先日葬式がありましたが、ここでは土葬なんですよ。昔から葬式には2足のワラジと1足のゾウリがいる。ワラジをはかせて棺に入れ、緒を真綿でくるんで痛くないようにしてやるんだね。そして、引導を渡す和尚さんがゾウリをはかせるんです」







干蒲で、強い雨と風がいきなり山から下りてきた。冬季分校になる小学校の庭の桜の枯葉が、濁った空に鴨の一群が飛んでいるように舞った。靴の中までじとじと濡れている不快感と寒さで全身をがたがた震わせて、ただ風の音に飲み込まれているだけだった。かなりの時間、小学校の軒下で震えていた。
雨がやんで、走る雲間から光が走り、山の一部が明るくなった。黒っぽい風景の中で、そこだけが燃えた。その火は、やがて山頂のほうに移っていって、消えた。再び黒くて速い動きの雲が光を覆い、また、震えがやってきた。こんどは骨までひびくような冷えだった。干蒲(ひかば)から、金山峠を越えると山形県である。足のつま先の感覚がない。もうだめかと根をあげようとするころに、楢下(ならげ)というところに着いた。
「食用菊を送りましょう、古里の味季節の香り、菊は都会の人にたいへん喜ばれます。速達小包で4キロまで送れます」楢下の郵便局にそんな張り紙があった。ここからバスに乗った。バスは、夕日にいっそう赤くなった干し柿のトンネルを抜けて上山へ、そしてその日の宿泊地山形市へ向かった。
*文中に出てくる渡瀬、原、追見という3集落は、1991年10月に完成した七ヶ宿ダムの底に沈みました。


六十里越街道 



山形市の七日町、八日町は古い町並みのにおいがあった。格子窓のある家や雁木のある家などが、そのまま魚屋だったり雑貨屋だったりする。そんな町なみを抜けると船町で、近くの最上川に合流する須川が流れていて、かつて酒田、大石田と並んで大きな船着場だったところに出る。船問屋だったという家で、主人の阿部さんから話を聞いた。



「このあたりは農村といっても五反百姓だったから、みんな船の仕事をしてた。舟子と言って、へさきに糸づるをつけて3人ぐらいで肩にかけ、船を岸につける仕事や背子といって荷物を荷蔵に運ぶ仕事や馬子などです。船のしごとは実入りがよくて、今日の金は明日に残すな、などと言ってみんな飲み食いに使ってしまったらしく、商いの盛んな派手なまちでした」
「どんなものを運んだのですか」
「酒田から、京都、大阪へ2月以上もかかってコメや紅花、生糸、麻などを運んで行って、帰りに古着や瀬戸物、塩、砂糖、庭石などを運んできました。関西の文化が川によってこちらに運ばれてきたのです」
ふと、妻子と別れてつらい船旅をした後、酒田で女と遊び、山背風に帆を張って帰ってくる、という内容の舟人の労働をうたった最上川舟歌を思い浮かべた。
ヨーエサノマッガショ エンヤコラマーガセエ 酒田さ行ぐさけまめ(達者)でろちゃ  流行(はやり)かぜなどひかねよに・・・。
なんとなく渡し船が見たくなり、酒田と米沢の中継地で川港とした栄えた最上川舟歌の発祥の地、大江町の左沢(あてらざわ)へ行った。用というところに渡し船があって、子どもを背負った船頭さんの奥さんが、向こう岸に渡るおばあちゃんと幼児を乗せて出るところだった。
私も乗せてもらい「お客さん、多いんですか」と聞いた。「夏はみんな車使うから少ないけど、冬は多いですよ」と言う。今日のように水が静かな時は奥さんがやるのだそうだ。「馬鹿水っていうんだそうですね。水が増した時はたいへんでしょ」
「夜通し見張りですよ。朝、水が引くと船がおいてかれるのです」





最上川のゆるい流れに沿って下り、1300年前に建立されたという寒河江市の慈恩寺へ行った。すでに早い夕暮れになっていて、スギやヒノキに囲まれて三重塔や釣鐘や土蔵などが、墨絵のように風景の中に沈んでいた。白岩、海味(かいしゅう)というむらを歩いて先へ進もうと思ったら、鶴岡に出るバスは10月中旬で終わっているという。月山のふもとの志津というところで旅館をやっている清野さんと出会い話をしていたら、車で山を越えてくれるという。ひどく冷え込んでいて雨がしょぼしょぼ降っているものだから心細い。こんな感じだと明日は雪になるかもしれないというので、とにかく急いだのだった。



やがて山に入り、山間に集落を見ながら行く風景は、晴れていたら素晴らしい自然のすがただろうと思われた。「西川町は新築ブームなのですね」「この先に寒河江ダムができるので、山を下りてきた人たちでしょう」
激しくなった雨にじっとりとぬれて、荒野のようだった。志津を過ぎて、さあ山越えも本番だなと思うころ、雨にちらちらと白いものが混じってきた。曲がりくねった山道は、すぐに舗装が切れて、濃い霧が泳ぎ始めると、あっという間に闇の中に包まれてしまった。視界には車のライトに光る道とブナの林がぼんやりと見えるだけだった。車に乗って2時間近くやっと下り坂になり遠くに小さな灯が見えて、そこが田麦俣だった。
民宿「田麦荘」という看板を見て、飛び込んだ。小さな部屋には火鉢型のストーブとテーブルそして脇にふとんが重ねてあって、裸電球がぽつんとついていた。ヒメマス、月山タケノコ、トンビ茸、フキ、セリなどで夕食をとりながら、月山も湯殿山も見ることができなかったなあと思った。さっきまで走っていた道は、もうすっかり雪に埋もれているかもしれない。
朝、田麦俣は小雪がちらついていた。窓からかぶと造りの多層式家屋が見えた。3戸ほど残っているが、住んでいる家は1軒だけだという。







みぞれになっていたのだが、旧道を行くことにした。昔の六十里街道は、七曲り、八曲がりの道を屋根づたいに蟻のようにたどってのぼることから、「蟻越え」と言ったと民宿の渋谷さん。
全身ぐしょぐしょになり、枯れ草の中に迷い込んだ。どうにか抜けるとやっと歩ける道は沢で切れていたり、ウサギをとるワナでふさがれていたりして、ついに行きどまりになってしまい、しかたなく下山したのだった。通りかかったおばあさんに聞くと、まるで反対の道を上っていて、まる2時間無駄にしていたのだった。
さらに1時間泥道の旧道を歩いて、やっと大網の里についた。しばらく村を歩いてから、どっと冷え込んだ小雨降る夜の鶴岡行バスに乗ったのだった。
*1977年月刊誌「地上」、1979年出版の単行本『ズレたシャッターチャンス』再録。














 

使用カメラ

ニコンS3 W-Nikkor3.5cm f2.5
ニコンF2 ニッコール28ミリf2.8


1976年のできごと

1976年、ロッキード事件。モントリオール五輪。毛沢東主席死去。CM、「みんな悩んで大きくなった」サントリー。「わかるかな、わかんねぇだろうな」焼きそばUFO。{どっちかトクかよーく考えてみよう」サクラカラー。漫画、楳図かずお「まことちゃん」。篠山紀信「GORO」で「激写」。芥川賞、村上龍「限りなく透明に近いブルー」歌謡、ピンクレディー「ペッパー警部」。子門正人「およげたいやきくん」、都はるみ「北の宿から」、山口百恵「横須賀ストーリー」、イルカ「なごり雪」、内藤やす子「思い出ぼろぼろ」、森田公一とトップギャラン「青春時代」。映画、大島渚監督「愛のコリーダ」。長谷川和彦監督「青春の殺人者」。シドニー・ルメット監督「狼たちの午後」マーティン・スコッセン監督「タクシードライバー」。ミロス・フォアマン監督「カッコーの巣の上で」。

丹野 清志(たんの・きよし)

1944年生まれ。東京写真短期大学卒。写真家。エッセイスト。1960年代より日本列島各地へ旅を続け、雑誌、単行本、写真集で発表している。写真展「死に絶える都市」「炭鉱(ヤマ)へのまなざし常磐炭鉱と美術」展参加「地方都市」「1963炭鉱住宅」「東京1969-1990」「1963年夏小野田炭鉱」「1983余目の四季」。

<主な写真集、著書>
「村の記憶」「ササニシキヤング」「カラシの木」「日本列島ひと紀行」(技術と人間)
「おれたちのカントリーライフ」(草風館)
「路地の向こうに」「1969-1993東京・日本」(ナツメ社)
「農村から」(創森社)
「日本列島写真旅」(ラトルズ)
「1963炭鉱住宅」「1978庄内平野」(グラフィカ)
「五感で味わう野菜」「伝統野菜で旬を食べる」(毎日新聞社)
「海風が良い野菜を育てる」(彩流社)
「海の記憶 70年代、日本の海」(緑風出版)
「リンゴを食べる教科書」(ナツメ社)など。

写真関係書
「気ままに、デジタルモノクロ写真入門」「シャッターチャンスはほろ酔い気分」「散歩写真入門」(ナツメ社)など多数。

主な著書(玄光社)

写真力を上げるステップアップ思考法


自由に楽しむ! スナップ写真入門


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