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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜

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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜
カメラマン 丹野清志。昭和19年(1944年)に生まれ、平成、令和の時代を通り過ぎ、60余年に渡って日本を撮り続けてきた。一人のカメラマンの小さな“記憶の断片”といえる写真とともにタイムスリップし、その時、その場所で出逢った物語を今の視点で見つめる。
公開日:2025/06/17

第7回1977年 奥羽紀行(2)半島を行く 下北半島・津軽半島(1972・1981年)

Photo & Text 丹野清志

さいはての地尻屋崎へ

青森県には2つの半島があります。下北半島と津軽半島です。1977年3月、前回の「奥羽紀行・旧街道の旅」に続いて下北半島を旅しました。下北半島へは75年に出かけていて、平内町、野辺地町、横浜町、むつ市、川内町、脇野沢村へとホタテ養殖の船に乗せてもらったりしての陸奥湾沿岸をめぐる旅でした。その時の陸奥湾は、マスコミで話題の地でもありました。むつ市の大湊港を定係港としていた日本初の原子力船「むつ」が、1974年放射線漏れ事故を起こしたからです。漁業関係者の帰港反対によって「むつ」は漂泊することになり、約1ケ月後大湊港に帰港し原子炉を封印して係留、75年の陸奥湾巡りの時大湊港に立ち寄って眺めてきました。「むつ」は、76年に修理のため佐世保港に移りました。現在は原子炉室を撤去して海洋地球研究船「みらい」として海洋調査をしています。
今回の下北への旅は、街道の旅がそうであったように、足の向くまま気の向くままにというぶらり旅。まず半島突端の東通村尻屋崎を目指して、歩きとバスの移動でした。悪天候だったので尻屋崎の宿に2泊して、再び海沿いの道を歩き、疲れたところにバスが来て乗りという繰り返しで、マグロ漁で知られる本州最北端の大間崎へ向かったのでした。もう一つの津軽半島への旅は、1972年と1981年と撮影年がずれるのですが、「2つの半島」として組みました。


下北半島 1977年









褐色の風景の中に、ところどころまだ雪がへばりついていた。
尻屋岬の灯台に向かって海辺の道を歩いていくと、松林に囲まれて、広い放牧場があった。そこで、数頭の馬を見た。一年中放し飼いにされている寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる馬だった。尻屋で、牧野組合長の坂下さんに馬の話を聞いた。寒立馬と名付けられたのは七年前のことで、それまでは「野放し馬」と呼んでいたそうだ。
前足で雪をかいて草を食いながら冬を越す。耐久力に優れていて、昔は軍馬、農耕馬として使われていたという。近づいてもとくに驚くようなそぶりは見せなかったので「おとなしいんですね」と言うと、坂下さんは手を大きくふって「とんでもない、こわいですよ。われわれだってふれることはできません」と言った。
翌日、何かが唸るような風の音で目を覚ました。宿の窓を開けて外を見ると、雪と雨がまじりあって吹き飛んでいた。じん、と冷え込んでいて、ストーブを抱え込むようにしていないと寒い。「さむいですねぇ」と宿の人に言うと特に寒いということはないという表情で「今年は雪が多かったですよ」と答える。ストーブは一年中つけっぱなしで、夏の気候は八月の二週間ぐらいなのだという。
もう一泊延長しようかなと思いながら、雨が止むのを待って荒れた海を見に出かけた。予想以上に強い風は、殴りかかるようにぶつかってきて、借りた傘はすぐにひっくりかえってしまい、顔はがちがちに凍り付き、やたらと涙と鼻水が流れ落ちてくるのだった。
そうして、一日じゅう雨と風は騒いでいたのだが、一夜明けるとすっかり消えていた。ただ、重苦しい雲だけがどっぷりと空を埋め尽くしていた。







ふきのとうの黄緑色をあちこちに眺めながら、ぶらぶら歩いて岩屋まで行き、そこからバスに乗り、目名という村へ行った。このあたりでも珍しくなったという茅葺の家の間をうろうろしていると、ひょっこり家からおじいさんが出てきたので、こんにちはと言って話かけようとすると「まあ、あがんなさいよ」と家に招き入れるのだった。ストーブのそばにはおばあさんがいて、「食べなさい」とご飯を出してくれた。ちょうど昼時で空腹でもあったから、さっそくがつがつといただいた。
「ワラ言葉、覚えたかね」とおじいさんが言う。きょとんとしていると、笑いながら「こっちのことばで自分のことをワラって言うんだよ。といってもこのへんの若いもんのことばは近頃変わってきたからなあ」
「このあたり、何軒ぐらいあるんですか」
「六十軒。みんな農家だよ。ここは海から離れているからね、昔は馬と山仕事。今はコメ作ってるけど気候がこうだから他所なみとれるには倍の土地がいるなあ。田名部の町が近いから、息子たちは町に勤めて住んでる。「東京にも一人行ってるよ」「田植え時には手伝いにきてくれるんですか」「やってくれるね。でも、ただじゃないよ。できたコメ送るから」





しばらくそんな話をしてから再びバスで海沿いに出て、大畑に向かった。大畑の港には、サハリン、アラスカに三か月ほど出かけるという大きな船と、沖合で漁をする小さな船がびっしりと詰まっていて、五月からの漁の準備をしていた。すべての船がイカ漁のものだった。
「役人なんかとちがって働くなくちゃあ食っていけねえよ」
漁師たちは二百海里の問題(二百海里・約370kmの中での外国船の漁を禁止するというもの)でイライラしているのだった。冷たい風は変わっていなかった。次の日もぼんやりと頼りない太陽が時々分厚い雲間から顔を出すような天気だった。
風間浦村の易国間(いこくま)というところで、打ち寄せる波に胸までつかって昆布を拾い集めている人たちを見かけた。八月が最盛期だが、ちょうどいまごろのものは「わかおい」と言いやわらかくてうまいのだそうだ。海沿いの家には、どこも昆布がぶら下がっていた。





本州最北端の町大間に着いた時、猛烈な風にのって雪が飛んできた。とにかく突端まで行ってみようと歩きだしたのだったが、呼吸をするのがやっという冷たい風と雪とのたたかいでかなりの時間がかかった。
弁天島という小さな島に灯台があって、その向こうに函館の白い山々が見えていた。小さな神社の木陰で休んでいると、中からおばあさんが出てきて「あったまんなさいよ」と言う。誘われるままに神社の中に入ると、ストーブのまわりに五人のおばあさんがいて、イカを酒につけていた。明日が弁天神社の祭礼で、その準備をしているのだという。おばあさんたちは、歯のない口でヒョッヒョッと笑い、言葉はまるで分らないのだった。
風はその夜も荒っぽく吹き続けていた。翌日、祭りを見てから佐井村へ行った。
(1977年記)


津軽半島 1972年















五所川原駅前に弘南バスの発着所があり、待合室は人で埋まっていて混雑していた。大声でしゃべり合う男たちの話に聞き耳をたてていたのだが、話の内容どころか会話のすべてが分らなかった。
五所川原-大畑-菰槌-舘丘神社-亀山-亀ヶ岡-田小屋野-筒木坂-平滝-高山神社-牛潟-車力-豊富-千貫-富萢-権現-深沢-栗山-山子-深津-十三神社-十三。ひょいとバスを降りて集落をぶらつき、またバスに乗ってふらりという繰り返しで車力で降りた。
車力村は、かつて腰切田と言われた湿田が広がる米作地帯。この地に1971年末ミサイル射爆場設置計画が明るみに出て、突然知らされたむら人たちはぶっそうな「開発」に反対運動を起こした。その1周年記念集会が車力村青年研修所で開かれていて、ちょっとのぞいてみた。100人ほどの農漁民、市民が集まっていて話し合いを続けていた。津軽半島西側に広がる海岸砂丘地帯屏風山が射場用地で、すでに買収されていて杭がうたれている。日本海に面した浜は七里ヶ浜と言い、縦走砂丘とも呼ばれている。







カシワが密生していて葉がカサカサと音を立てる中を寒さと冷えで全身がちがちになりながら、歩いていると、何やら作業を続けている女性たちを見かけた。自生している竹を刈りとる仕事をしているのだった。近寄ると、一斉に視線がこちらにきて「どっから来た?」と一人が言い、続けて「こんなところに何しに来たのか」というようなことを聞いてきた。東京から来たと言うと、なぜかみんなどっと笑った。それからいろんなことを話しかけてくるのだけど、まるで意味が分からないのだった。津軽の言葉は難解だ。車力村でコメを作る歌人の中村正行(雅之)さんの紹介で、主人が出稼ぎで村を離れていて母と妻子が暮らす家を訪ねたのだが、その時もまったく理解することができず、中村さんに通訳してもらったのだった。





十三湖は海水と淡水がまじりあう汽水湖で、岩木川など13の河川が流れ込むことから十三湖と名付けられ、地元では十三潟とも呼ぶ。横殴りに走っていた雪がかたくなっているなと思ったら氷の粒のようになっていて、顔じゅうに突き刺さるのだった。「風で顔が凍るようだ」という言いかたをよく聞くが、唇はぷるるとも動かず、鼻水がずるずるとたれてきていても何も感じなくなっていた。突然というかんじでふっと風が弱くなった。暗い雲に覆われて空の隙間からもれてきた光が湖面に反射して富萢(とみやち)の集落を明るくした。

水はるか距てて見ゆる対岸にトタン屋根光る家あり寂し
流動のながきはてなしと思ひをり冬の十三潟の水の平坦 中村雅之


十三湖には木の橋がかかっていて、北側は市浦村。橋の真ん中あたりで、胸まで水に浸かってヤマトシジミ貝をとっている人がいた。写真を写させてもらっていると、あとで家に来いよ、と言う。橋を行ったり来たりして男の仕事が終わるのを待った。「おーい」という声についていくと、薪ストーブのあたたかい部屋に通されて、シジミ汁をごちそうになった。それでいきなり身体が温かくなったものだから、凍った身体が溶けたようになりふうっと眠くなった。遠くから、「寝てていいぞぉ」という声が聞こえた、ような気がした。(1972年記)
*文中の富萢、車力村は現在つがる市。市浦村は五所川原市。




竜飛崎 1981年

津軽線の終着駅三厩(みんまや)駅の小さな駅舎を出ると、雪がぐるぐると空中をまわりながら絡みついていた。一緒に降りた数人が、白い景色の中に消えた。食堂の裏に龍飛へ行くバス停があり、ドアが開いていたので乗り込む。しばらくして、運転手と車掌が乗ってきた。バスは海沿いに走り、一人、二人と乗ってきて、一人、二人と降りるくり返しでバスは雪降る中を進んだ。私も途中下車しつつ竜飛崎(地図では龍飛崎)へ向かった。
太宰治が「津軽」を書いたのは私の生まれた年、1944年(昭和19年)。

「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」


という書き出しで本編がはじまる。十七時三十分上野発の急行列車に乗り、青森に翌朝八時着。バスで蟹田に行き、「津軽」の旅がはじまる。蟹田から船で竜飛へ行き、帰りはバスという計画が、悪天候になりバスで外ヶ浜街道を北上し今別の港から船に乗る予定が三厩で泊まることになり、歩いて竜飛へ行くことになる。

「竜飛だ」とN君が、変わった調子で言った。
「ここが?」落ち着いて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。狂暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとかたまりになって互いに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落をすぎて路は無い。あとは海に転げ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは本州の袋小路だ。 (新潮文庫『津軽』)







風が黒い海をゆさぶっている。波をなでるように細い光が流れていく。光はゆっくりと動いて行って時どき広くなり、そして消えた。海からの風はますます強くなっていく。風や雪やしぶきや涙や鼻水が顔じゅうの皮膚から肉へ入り込んで溶けていくようだ。それでも、岬に立って海を見続ける。写真を写すことなどどうでもよくて、狂ったような風の中いたかった。がちがちに固まった体をほぐすように動かして海沿いを歩いて、今夜の宿がある半島の突端の小さな集落へ出る。細い坂道はつるりと光っていて、氷の上を歩いているようだった。五所川原へ向かう今日最後のバスが、暗い風景の中に消えた。
宿のおばさんが、高倉健と吉永小百合が来ているから見に行きたいので食事をはやめてくれないかと言う。その日、映画「海峡」(青函トンネル工事をドラマ化した森谷司郎監督)のロケが行われていた。私も、健サンは見たい。で、ロケの場所へ行ってみる。海辺はライトに照らされていて、何人もの男たちが動きまわっていた。ばあちゃんたちが集まっていた。集落のほとんどの人が出てきているようだ。撮影はなかなか始まらず、人工雪のテストやら何やらを見ているうちに体中が冷え切ってしまい、岬を離れる時に転んで腰を打ちつけた痛みもあり、せめて健サンちらりと思うのだが待ち続けるばあちゃんたちのような根性はなく宿に戻ることにした。その時、撮影する家の前をすうっと小百合さんが歩いて行った、ように見えた。夜、ずうっと海峡の波の音が聞こえていた。(1982年記)


使用カメラ

ニコンS3 W-NIKKOR・C 3.5cmF2.5
ニコンF2 ニッコール28ミリf2.8
津軽半島・縦走砂丘 ニコンFM


1977年のできごと

日本赤軍日航機ハイジャック。王貞治756本塁打達成、国民栄誉賞。世界初の自動焦点カメラ コニカ C35AF発売。新宿歌声喫茶「灯」閉店。黒人奴隷問題をテーマにしたアメリカのテレビドラマ放送。小説、 A・ヘイリー「ルーツ」。CM、「トンデレラ・シンデレラ」キンチョー。流行、「話がピーマン」「翔んでる」。漫画、松本零士「銀河鉄道999」、歌謡、キャンディースズ解散「普通の女の子に戻りたい」。石川さゆり「軽海峡冬景色」。中島みゆき「わかれ歌」。山口百恵「秋桜コスモス」「イミテーションゴールド」。千昌夫「北国の春」。八代亜紀「愛の終着駅」。ピンクレディ「SOS」「カルメン77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド」。「岸辺のアルバム」。小説、島尾敏雄「死の棘、芥川賞、池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」。映画、山田洋次監督「幸せの黄色いハンカチ」。新藤兼人「竹山ひとり旅」。寺山修司監督「ボクサー」。ルイ・マル監督「鬼火」。ジョン・G・アヴィルドセン監督「ロッキー」。サム・ペキンパー監督「戦争のはらわた」。アンドレイ・タルコフスキー監督『惑星ソラリス』
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丹野 清志(たんの・きよし)

1944年生まれ。東京写真短期大学卒。写真家。エッセイスト。1960年代より日本列島各地へ旅を続け、雑誌、単行本、写真集で発表している。写真展「死に絶える都市」「炭鉱(ヤマ)へのまなざし常磐炭鉱と美術」展参加「地方都市」「1963炭鉱住宅」「東京1969-1990」「1963年夏小野田炭鉱」「1983余目の四季」。

<主な写真集、著書>
「村の記憶」「ササニシキヤング」「カラシの木」「日本列島ひと紀行」(技術と人間)
「おれたちのカントリーライフ」(草風館)
「路地の向こうに」「1969-1993東京・日本」(ナツメ社)
「農村から」(創森社)
「日本列島写真旅」(ラトルズ)
「1963炭鉱住宅」「1978庄内平野」(グラフィカ)
「五感で味わう野菜」「伝統野菜で旬を食べる」(毎日新聞社)
「海風が良い野菜を育てる」(彩流社)
「海の記憶 70年代、日本の海」(緑風出版)
「リンゴを食べる教科書」(ナツメ社)など。

写真関係書
「気ままに、デジタルモノクロ写真入門」「シャッターチャンスはほろ酔い気分」「散歩写真入門」(ナツメ社)など多数。

主な著書(玄光社)

写真力を上げるステップアップ思考法


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