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さようなら東京

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さようなら東京
2度目の五輪を控え、東京は変革のときを迎えている。とりわけ大きく姿を変えつつあるのが、いわゆる下町といわれる23区の東側だ。懐かしさと新しさが交差するエリアを、写真家・鹿野貴司が記録する。
公開日:2019/03/01

【其の五】赤線と町工場が交差する「墨田区東向島」

photo & text 鹿野貴司
 

荷風も彷徨った迷宮の跡を歩く

この連載は東京からあらゆる光景が失われている、ということがベースとなっている。僕がかつてサラリーマン時代を過ごした渋谷駅南口がごっそり再開発されるのには驚いたが、目立たずひっそりと消えていく光景もある。その代表格といえるのが「赤線の跡」ではないだろうか。赤線とは政府公認で売春が行われていた地域だ。東京では13か所あり、カフェーと呼ばれる特殊飲食店が立ち並んでいた。アールを描く庇やタイル貼りの壁など、木造モルタルの家屋にアールデコ調の装飾を施しているのが特徴だ。1階にカウンターやダンスホールを設け、女給たちは2階の部屋を“自宅兼仕事場”として間借りしていた。

赤線廃止後、カフェーは民家や店舗に転用されてきたが、それらがもっとも現存するといわれてきたのが墨田区東向島だ。昭和40年までは寺島町といい、玉の井とそこから分かれた鳩の街、ふたつの赤線を有していた。僕は隣町・鐘ヶ淵の高校に通っており、登下校時には玉の井のあたりを自転車で走っていた。その少し前、東武博物館の開館とともに、東武鉄道は赤線のイメージを払拭するため玉ノ井駅を東向島駅と改名。歴史ある地名を葬り去るのか、と地元から反発が起き、「東向島駅(旧玉ノ井)」と併記することで決着したという。そのニュースで高校生の僕も玉の井がそういう場所なのだということは認識していた。

東京の下町というと、今では隅田川の東側を思い浮かべる人も多い。実際の下町は西側にあったのだが、関東大震災で被災。そこから逃れてきた人たちによって、田園地帯だった東側にかつての西側のような街並みが形成されたのだ。銘酒屋(娼家)街と呼ばれた浅草の私娼窟も、震災で東向島駅の東側、国道6号の両側にまたがる玉の井に新天地を求めた。最盛期は娼家が500軒あり、娼婦は1000人、いやその2倍や3倍いたという説もある。永井荷風が『濹東綺譚』で描いたのもこの頃の玉の井だ。

路地が複雑に入り組む様子を、荷風は「ラビラント(迷宮)」と表現した。そのラビラントも東京大空襲に遭い、被害の少なかった現在の玉の井いろは通りの北側へ移転。私娼窟から赤線となり、警察の指導で前述のカフェー建築が立ち並ぶようになった。地図をみるとラビラントやカフェー街のあたりは、今も迷路のように路地が入り組む。高校時代よく通っていたし、もともと方向感覚には自信のある僕でさえ、今回の取材で何度も道に迷った。違う方向に向かったはずなのに、同じ場所へ戻ってしまうのだ。きっと荷風もそんな体験を繰り返したに違いない。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ40mmF1.4 DG HSM | Art
F8 1/1000 ISO100 WB:オート

ラビラントのど真ん中を国道6号(水戸街道、右)が貫く。鋭角の建物がこの先の路地が複雑であることを示す。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ40mmF1.4 DG HSM | Art
F4 1/30 ISO125 WB:オート

ラビラントの外れにあるスナック。そういえばスナックのドアって斜めに向いていることが多い気がする。表から見えないためだろうか。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ40mmF1.4 DG HSM | Art
F2.8 1/200 ISO100 WB:オート

ネットで検索すると頻出する元カフェー。洗濯ハンガーの掛け方が斬新だ。
 

ソニーα7R III + Vario-Tessar T* FE 24-70mmF4 ZA OSS
F8 1/160 ISO100 WB:オート

ラビラントとカフェー街を分ける玉の井いろは通り。僕が高校生だった約25年前は賑わっていた印象があるが、今はシャッターを下ろしたままの店舗も目立つ。

またラビラントにあった娼家の一部は、寺島町の南西に移り、別の赤線地帯を形成した。最盛期には108軒の娼家、300人を超える娼婦が集まっていたという。上客である進駐軍に忖度して「Pigeon Street」と名付けられ、日本語では鳩の街と称された。今も商店街にその名を残す。

ネットで検索すると玉の井や鳩の街で、住居や店舗に転用されたカフェー建築を訪ね歩いた記事を散見できる。それらで予習をして今回は自転車と徒歩で路地をくまなく回ったのだが、原形をとどめていた物件の多くはすでに跡形もなかった。売春防止法の猶予期間が終了し、赤線が廃止されたのが昭和33(1958)年3月31日。つまり現存するカフェー建築は最低でも60年以上経っていることになる。もはや残っている方が奇跡なのだ。

ちなみに現存するカフェー建築の大半は、赤線時代と関係のない方が暮らしていると思われる。なので住居物件はあえて写真を載せなかったが、興味のある人は今すぐ訪ね歩いてほしい。僕が3日間かけて見つけた痕跡は10軒足らずだった。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ40mmF1.4 DG HSM | Art
F2.8 1/100 ISO400 WB:オート

昭和の面影を色濃く残す鳩の街商店街。昭和2年築の元薬局をリノベーションしたカフェ「こぐま」ができたことで、隣町の京島とセットで歩く観光客も多い。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ14-24mmF2.8 DG HSM | Art
F8 1/60 ISO200 WB:オート

鳩の街周辺はとにかくトタンの外壁が多い。トタンの錆びは町の年輪だ。
 

町工場が元気だった頃を思う

玉の井や鳩の街が興る以前から、寺島町界隈は製造業が盛んな町でもあった。南隣の本所区は明治維新後、失業した元武士たちが従事することで、日本における繊維産業の一大拠点となっていた。そして北隣の隅田村には戦前、日本企業で売上高1位を誇った鐘淵紡績(後のカネボウ)があった。今も鳩の街商店街の裏手には、窓が特徴的な元撚糸工場がある。写真を撮っていたら、かつて中で働いていたというおじいさんに声を掛けられた。実は20年ほど前、ここを会場にしたアートイベントで中に入ったのだが、糸を撚る古い機械が所狭しと並び、異空間そのものだった。おじいさんに今も機械はあるんですか?と尋ねると「外国に売っちゃって、もうないよ。建物を壊すって話もあるし」。

繊維産業はごっそりアジアへ移って久しい。そんな中、壁を紅白の幕が覆っている「田村メリヤス」という古い工場がある。メリヤスとは今でいうニットだ。以前からこの工場の存在は知っていたが、ここは「午後1時〜3時支度中」という貼り紙がある。なぜか今まで通りかかるのは決まって支度中の時間だったのだが、そもそも町工場が昼休みを告知する理由が謎だった。しかし今回長年の謎が解けた。なんと中は八百屋だったのだ。

ガランとした空間に、農家から直接仕入れたと思われる土の付いた野菜の数々が、驚くほど安い値札とともに並んでいた。聞けば10年ほど前に工場をやめ、夫婦で八百屋を始めたという。伺った日は奥さまが店番で、主人は千葉の農家へ大根の仕入れに行っていた。僕もじゃがいもとほうれん草を袋いっぱいに買い、お会計は220円だった。  
 

ソニーα7R III + シグマ28mmF1.4 DG HSM | Art
F2.8 1/100 ISO200 WB:オート

「田村メリヤス」の店内。紅白の幕はかつて工場で作ったもの……ではなかった。「雰囲気が明るくなるでしょ」と奥さん(写真右)。
 

ソニーα7R III + シグマ28mmF1.4 DG HSM | Art
F9 1/100 ISO400 WB:オート

鳩の街周辺の路地を巡っていると、昭和40〜50年代の世界からスカイツリーが頭を出す。

このあたりは他にもメリヤス工場が10軒ほどあったと教えてくれたのは「田村メリヤス」と同じ路地に面し、こちらも以前から気になっていた「カバンは井上」の主人だ。数年前鳩の街を歩いたとき、外壁にこれでもかとカバンやリュックをディスプレイしている光景を見つけて衝撃を受けた。そういう店舗はある日突然、店主の健康状態で閉店してしまうことが多いのだが、今回再訪すると健在だった。よかった。

店内に入ると、奥から現れたのは実直そうな主人だ。ガラスケースに並ぶのは下町の町工場や職人が作ったという財布や革小物、ガマ口。主人は愛でるようにひとつひとつを手にしながら、特徴や機能、作り手の説明をしてくれた。どれも職人のアイデアやこだわりが込められており、ブランド名はないけれど強い個性がある。同時に大半の品はデッドストック。主人の「これを作った人も、もうやめちゃったね」という寂しそうな声を何度も聞いた。その中から撮影用小物を入れるのによさそうなガマ口と、革の小銭入れを買う。使いやすくて主人も愛用しているという小銭入れは1800円。これまで相当な数を売ったそうだが、僕が買ったのが最後の1個だった。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ40mmF1.4 DG HSM | Art
F8 1/80 ISO400 WB:オート

「雨が降ったらどうするんですか?」と聞いたら、少しでも雲行きが怪しい日はやらないそうだ。なのでご覧になるなら降水確率0%の日をどうぞ。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ40mmF1.4 DG HSM | Art
F1.6 1/320 ISO800 WB:オート

主人は父親が作ったこの店を18歳から手伝い、65年が経つ。昔は近隣で働く人たちを相手に繁盛したという。

主人に表のディスプレイについて尋ねると、商品がさっぱり売れなくなった10年ほど前、売上げを上げるために始めたという。80歳を過ぎた主人は毎朝、ディスプレイを完成させるのに1時間半、そして夕方は片付けるのにまた1時間半をかける。売上が上がったのかどうかは聞き忘れたが、主人の若々しい表情を見ると、その作業が健康=店舗の維持に役立っているのは間違いない。

町工場という客がいることで、別の町工場がモノを作れた時代も今は昔。だがひときわ忙しそうな町工場もあった。中をのぞくと油の染みた工作機械が所狭しを並び、青い作業着姿の職人さんたちが黙々と働いている。果たして何を作っているのか。東向島在住の知り合いに情報提供を求めたら「それ、うちの親戚」。

答えは製麺機に据え付け、麺をカットする切刃だった。1909年からこの地で麺の切刃を作り続ける「金子製作所」は現社長で4代目。製麺機メーカーが切刃を作ることもあるが、切刃専門の製造会社は日本でここだけらしい。インスタントラーメンの父であるあの食品メーカーから、讃岐にたくさんあるような個人経営の製麺所、はたまた麺以外にもカニカマや刻み海苔、錦糸玉子のために切刃も作っている。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ28mmF1.4 DG HSM | Art
F1.8 1/80 ISO125 WB:オート

溝そのものはNC旋盤が自動的に刻んでいくが、細かい加工は手作業で行っていく。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ70mmF2.8 DG MACRO | Art
F2.8 1/160 ISO320 WB:オート

職人さんは大抵無口だけど、背中は雄弁。なぜだろう。

等間隔で溝を刻んだ鉄の棒が2本で1組。そこに薄く伸ばした生地を通し、細い麺にカットしていく。インスタントラーメン用になると棒1本が70〜80kgにもなる。溝の刻み方で麺の太さや食感はもちろん、スープの味まで変わるので、ほぼオーダーメイドだ。この世に人類がある以上、麺は絶対必要。少なくとも僕は必要だ。そして麺がある以上、切刃も必要である。下町から消えてしまった業種も多いけれど、まだまだ必要とされる町工場もあるのだ。僕はなんだか明るい気分になり、うちに帰ってチキンラーメンを食べたのであった。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ24-70mmF2.8 DG HSM | Art
F4 1/160 ISO100 WB:オート

トタン壁とモルタル壁、その隙間から瓦屋根。そして一匹の猫。この光景もあと何年残るのだろうか。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ24-70mmF2.8 DG HSM | Art
F5.6 1/80 ISO100 WB:オート

道路拡張で閉店する洋品店。開業は昭和21年というから終戦翌年か。「平成と共に当店も終ります」という最後の一文が物悲しい。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ40mmF1.4 DG HSM | Art
F8 1/100 ISO100 WB:オート

朝夕、細い路地が太陽光の通り道になる瞬間がある。そういう場面に遭遇すると、少しばかり得した気分になる。
 

今回の町「東向島」




 
鹿野貴司(しかの たかし)

1974年東京都生まれ。多摩美術大学映像コース卒業。さまざまな職業を経て、フリーの写真家に。広告や雑誌の撮影を手掛けるほか、ドキュメンタリー作品を制作している。日本大学芸術学部写真学科や埼玉県立芸術総合高等学校で非常勤講師も務める。
写真集『日本一小さな町の写真館 山梨県早川町』(平凡社)ほか。

ウェブサイト:http://www.tokyo-03.jp/
Twitter:@ShikanoTakashi