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さようなら東京

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さようなら東京
2度目の五輪を控え、東京は変革のときを迎えている。とりわけ大きく姿を変えつつあるのが、いわゆる下町といわれる23区の東側だ。懐かしさと新しさが交差するエリアを、写真家・鹿野貴司が記録する。
公開日:2018/11/13

【其の三】乾いた町に川風が吹く「江東区森下あたり」

photo & text 鹿野貴司
 

まさかまさかの東へ出戻り

僕は2017年秋まで、荒川区の都電荒川線沿いに10年間住んでいた。住みやすくて気に入っていたのだが、賃貸の更新を機に妻の職場に近い大田区へ引っ越した。人生43年目にして、初めて東京の東側から離れたのだ。しかも移り住んだのは賃貸アパートながら、場所はハイソなお屋敷街。近所は小綺麗な邸宅ばかりで、気の利いた飲食店も、カメラを向けたくなる場所もほとんどなかった。

それでも住めば都と信じていた今年(2018年)の7月、この連載が始まる直前のことだった。地主さんから土地建物を購入したというディベロッパーから、3か月以内に退去するよう通告されたのだ。五輪後は土地の価格が下がるといわれている状況で、近所でもお屋敷が次々と更地になる光景を目の当たりにしていた。それがまさか自分の身にも降りかかろうとは、恐るべし五輪バブル。

退去期限は10月中旬。折しも妻は第一子を妊娠中で、出産予定も10月中旬だった。一刻も早く住処を決め、引っ越しを終わらせねば。僕と妻は翌日から家探しを始め、都内全域から神奈川まで範囲を広げて新居を探し回った。

実は昨年引っ越し先を探す際、僕の希望には両国界隈もあったのだが、妻から「そのあたりはよくわからない」と一蹴された経緯がある。それを思い出し、今度は清澄白河や蔵前におしゃれなカフェが多いことをアピール。賑わいに飢えていた妻の関心を集めることに成功し、結果としてどちらにも歩いていける、両国〜森下にまたがった場所にいい物件を見つけた。東京の東側を離れる切なさから始めたようなこの連載だが、結局僕は東側に戻ってきたのである。強い磁力に引っ張られた気分だ。
 

ソニーα7RIII + Vario-Tessar T* FE 24-70mmF4 ZA OSS
F8 1/320 ISO100 WB:オート

小名木川に架かる高橋は、葛飾北斎の作品にも描かれている。現在の橋は1931年に架けられたもの。
 

ソニーα7III + Sonnar T* FE 55mmF1.8 ZA
F3.5 1/60 ISO100 WB:太陽光

鉢植えアートは、東京でも東側に多い気がする。
 

ソニーα7III + Sonnar T* FE 55mmF1.8 ZA
F5.6 1/320 ISO100 WB:オート

土門拳がこのあたりで「江東のこども」を撮ったのは昭和30年前後。そこまで古くないものの、昭和30〜40年代築と思しき家屋はところどころに残る。
 

注目を集める「東京のブルックリン」

森下の南隣にあたる清澄白河は、東京都現代美術館やブルーボトルコーヒー日本1号店が起爆剤になって、工場街からアートとカフェの町になった。その経緯や雰囲気がニューヨークのブルックリンに似ていることから、清澄白河は東京のブルックリンとも称された。一方、森下の対岸の馬喰町〜小伝馬町も倉庫や古いビルを転用したギャラリーやデザイン事務所が多く、こちらも東京のブルックリンと呼ばれている。そして最近は北の蔵前にこだわりのあるカフェや工房が増えて、こちらもまた東京のブルックリンと呼ばれている。

今、Googleで「東京のブルックリン」と検索すると蔵前に軍配が上がるようだが、ともあれ隅田川下流はどんどんブルックリン化しているのである。もう台東区と中央区と墨田区と江東区の隅田川沿いはまとめて東京都ブルックリン区にしてもいいくらいである。

森下にはかつて「紅三」という古い染色工場跡を使ったベニサンピットという伝説の小劇場があった。大学生だった20年くらい前、僕もここで芝居を見た。通っていた学科には演劇専攻の学生もいて、その中の誰かが出演したのだと思うが、もはや詳細は覚えていない。しかし増築を重ねたと思われる巨大な建物や、その周辺も工場や倉庫が立ち並び、まさにブルックリンのような乾いた雰囲気だったことは覚えている。ベニサンピットは10年ほど前に取り壊されてしまったが、あれはどのあたりにあったのかなぁ…と思ったら、なんとうちのすぐ近くの大きなマンションだった。
 

富士フイルム X100F
F2.8 1/170 ISO200 WB:オート

洗濯乾燥機やミシンなどを備えたカフェ「喫茶ランドリー」。2018年1月にオープンしたばかりだが、森下に引っ越したというと、ここの名を挙げた知人が数名いた。いつも近所の主婦で賑わい、僕の妻もお世話になっております。
 

ソニーα7RIII + Vario-Tessar T* FE 24-70mmF4 ZA OSS
F4 1/50 ISO1600 WB:太陽光

ニューヨークにはしばらく行っていないが、もっとも好きな場所がマンハッタンからブルックリン橋を渡った先の、倉庫や工場が立ち並ぶあたり。隅田川や小名木川の畔にはどこか似た空気が漂う。
 

ものづくりの町には酒場が似合う

工場や倉庫がどんどんマンションに代わり、僕が住んでいるのもそのうちのひとつだったりする。でも今も渋い工場はかなり残っているし、たとえば相撲用具といった珍しいものを作っている工場も多い。

ある日、近所を歩いていたら、道端に墨で汚れた竹のカゴがいくつも置かれていた。中身は黒く塗られた謎の筒。中では途方もなく長い木の板をオヤジさんが削っていた。目が合うとオヤジさんはこちらへやってきて「珍しいだろ?」。口輪と呼ばれる提灯の上と底だった。東京はもとより関東でも今はここが唯一の製造元だそうだ。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ24mmF1.4 DG HSM | Art
F2.2 1/100 ISO800 WB:太陽光

この日は口輪ではなく箱を作っていたオヤジさん。初代が100年以上前に創業し、自分で3代目。杉並や浅草を経て、戦後森下に移ってきた(と機械の音が響く中で聞いたので、違っていたらごめんなさい)。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ50mmF1.4 DG HSM | Art
F1.8 1/160 ISO800 WB:オート

これが提灯の口輪。後日通りかかると、4代目らしき男性が刷毛で漆を塗っていた。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ50mmF1.4 DG HSM | Art
F1.8 1/250 ISO100 WB:オート

口輪を入れたカゴがまたいいのだ。飛び散った漆でまだらに染まっており、和のインテリアに合いそう。
 

ソニーα7III + Sonnar T* FE 55mmF1.8 ZA
F4.5 1/100 ISO100 WB:オート

天保年間創業の竹問屋もある。在庫の竹が隣のマンションのベランダを覆っていて、大丈夫かといつも心配してしまう。大丈夫なのだろうけど。
 
伝統が残る町には、新しい波も起きている。今のマンションを内見したときに偶然見つけたのが「リズムアンドベタープレス」。昼は活版印刷、そして夜は立ち飲み屋だ。元々印刷会社に勤めていた宍戸さんと佐藤さんのふたりが2018年2月に始めた。印刷工場や製本工場が多いから森下に開業したのかと思いきや、僕と同じく空き物件が見つかったのがたまたま森下だった。でもそれはたぶん活字の神様が引き寄せたのだと思う。僕も新しい名刺をここで刷ってもらったのだが、夜はまだ訪問できず。カレーがうまいらしい。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ35mmF1.4 DG HSM | Art
F1.8 1/800 ISO400 WB:オート

独ハイデルベルグ社製の活版印刷機が一枚ずつ版へ紙を送っていく。紙とインクの相性や機械の圧力によって仕上がりも変化。繊細な職人技が求められる。
 

キヤノンEOS 5D MarkIV + シグマ70mmF2.8 DG Macro | Art
F2.8 1/50 ISO400 WB:オート

かつて活版印刷といえば活字を組んで版を作っていた。今はデジタルデータから樹脂板を作るのが一般的。フォントも図柄も自由自在だ。
 
森下は初回で取り上げた立石にも劣らぬ“酒都”でもある。煮込みの名店「山利喜」や、馬肉料理の「みの家」は過去に行ったこともあるが、引っ越してから飲食店、とりわけ大衆酒場の多さに驚いた。昔ながらの酒屋も健在で、その軒先にはビールサーバーと椅子が置いてある。丁寧に注がれた生ビールは1杯400円。これで昼から0次会ができる。やがて下校する小学生たちが前を横切ると、おじさんたちは提灯の灯った酒場へ宿り木を移す。

ちなみに引っ越しのとき妻のお腹の中にいた息子は、父親に似てせっかちなのか、予定日よりちょうど1か月も早く生まれてきた。彼にとって森下は生まれ故郷になる。そして僕が立石でそうであったように、酒屋の軒先にいるおじさんたちを見て育つんだろうなぁ。
 

ソニーα7RIII + カールツァイスLoxia 2/35
F2 1/200 ISO1600 WB:オート

昭和23年から営んでいるという唐辛子屋もある。おばあさんが「辛いのは好き?」と聞いてきたので、好きですと答えると唐辛子を多めに調合をしてくれた。七味は1袋500円也。
 

ソニーα7RIII + カールツァイスLoxia 2/35
F2 1/250 ISO1600 WB:オート

唐辛子屋のおばあさんは90歳を越えているらしい。小上がりのこたつの上で、一匹の黒猫が作業するおばあさんを見守っていた。まさに時が止まった空間だった。
 

 

今回の町「森下」




 
鹿野貴司(しかの たかし)

1974年東京都生まれ。多摩美術大学映像コース卒業。さまざまな職業を経て、フリーの写真家に。広告や雑誌の撮影を手掛けるほか、ドキュメンタリー作品を制作している。日本大学芸術学部写真学科や埼玉県立芸術総合高等学校で非常勤講師も務める。
写真集『日本一小さな町の写真館 山梨県早川町』(平凡社)ほか。

ウェブサイト:http://www.tokyo-03.jp/
Twitter:@ShikanoTakashi